Norway Massacre – 納得できない刑法原理

 
昨年7月22日にノルウェーで起こったAnders Behring Breivik(33歳)による爆発・乱射事件。77人もの人命を奪ったこの事件で、3月11日にBreivik被告がテロによる殺人罪で起訴された。この訴訟の焦点は被告の責任能力の有無。これまで精神鑑定が2回行われ、昨年11月に行われた1回目の鑑定の結果では精神障害が認められ、責任能力なしとの判断が下された。ところが、先月10日に行われた2回目の精神鑑定では精神障害は認められず、責任能力があったとして、半年前に出された1回目の精神鑑定の結果を覆した。

Breivik被告は今回の2回目の精神鑑定の結果に満足しているという。

ちなみに、ノルウェーでは死刑が存在しない。たとえ責任能力が認められ、有罪となったとしても無期懲役が限度。ここで死刑と無期懲役の刑の重さを比較しようとも思わない。

人を何人殺害しても、刑法上、意思能力がなければ、責任能力が認められず、無罪。意思能力がなければ刑法上問われるべき責任能力がなくなり、違法性が突然消える論理が本当に正しいと言えるのだろうか。

ちょっと考えただけでも、絶対性を思わせる法律が公平に判断できないことを証明するのはごく簡単なことだ。

例えば、赤ん坊が間違って爆弾のボタンを押して何百人もの人間を殺してしまった場合、この赤ん坊に責任能力はあるのか。

例えば、飛び降り自殺した人間が故意に人気のない場所を選んで自殺しようとしたにも関わらず、偶然通りかかった歩行者にぶつかってその歩行者を死亡させ、自殺を図った本人は植物人間になってしまった場合、法律はこれをどう裁くのか。

例えば、海でおぼれている人を誰も助けなかったら、助けなかった人は有罪なのか?その人がオリンピック競泳の選手だったら有罪で、全く泳ぎができなかったら無罪? ベースがぐらぐらの法律を本当に法律と言えるのか。

それぞれの罪の重さをはかる量りも、一体だれが責められるべきかを見つける探知機も、正直ちゃんと機能しているとは思えない。法律の専門家というお面をかぶって、全てを公平に判断しているふりをする社会がそこにある。

人間がどんな状況においても公平に判断できるのであれば、法律なんていらない。でも、それができないから、法律がつくられる。ところが、法律も完璧にはなれない、その上、その解釈は所詮人間によってなされるのだから、完璧を望むことはほぼ不可能に等しい。

今回の事件でも去年の11月に行われた精神鑑定の結果と先月行われた精神鑑定の結果が違うとういことについて人々はどう考えているのか。半年で変わってしまう専門家の鑑定がどれだけ当てにならないかよく分かる。まして、この結果が被告が償うべき罪の重さを決めるというのであれば、訴訟の争点自体に問題あると言わざるを得ない。

子供を無残にも殺されてしまった家族の悲しみはどうやって癒されるべきなのか。

アルカイダにヒントを得て77人の全く罪もない子供たちを殺害したBreivik被告。多分ノルウェーの街頭で100人に聞いたらほぼ全員が被告を死刑にするべきだと考えるにちがいないこのケース、現行の刑法はそれでもなお、当てにならない精神鑑定の結果が決定する責任能力の有無にこだわるのか。

カテゴリー: Unresolved Issues パーマリンク