Michael Rafferty & Terri-Lynne McClintic – 許されない危険

 
2008年4月8日(火)、オンタリオ州にあるウッドストックという町に住んでいた8歳の少女、Victoria Tori Staffordが誘拐され行方不明なった。約1年後の2009年7月この少女の腐乱死体がオンタリオ州郊外の人気のない雑木林の中で発見された。検死の結果、この少女は性的虐待を受けた後、極めて残酷な手口で暴行され、死亡に至ったことが明らかになった。

この事件には共犯者が2人、Terri-Lynne McClintic(当時18歳) 麻薬中毒者とMichael Thomas Rafferty(当時28歳)小児性愛者。

2010年4月に行われた裁判では、McClinticのあまりにもショッキングな供述に、その後に予定されていたMichael Thomas Raffertyの裁判が公平に行われない可能性を懸念して、裁判官から報道差し止め命令が発令された。

同年12月に差し止め命令が解かれ、性的虐待に始まり少女が死に至るまでの暴行殺害行為の残虐な詳細が報道された。この8歳の少女は、最初にMichael Thomas Raffertyに性的虐待を受けた後、Terri-Lynne McClinticによってゴミ袋をかぶせられ、何度も蹴りつけられたあげくに、ハンマーで頭部を砕かれ死亡したという。

Terri-Lynne McClinticは、2010年12月自ら有罪を認め、無期懲役を宣告された。最後まで無罪を主張したMichael Thomas Raffertyの最終判決が5月15日(火)に下され、無期懲役が宣告された。この無期懲役については25年間仮釈放が認められないとされ、これはTerri-Lynne McClinticにも適用されている。

当然のことながら、この事件の背景をメディアは恣意的に操作する。例えば、あるメディアがTerri-Lynne McClinticは、子供の時に電子レンジに犬を入れて殺したことがあること、彼女はToriを殺害したことについて、“Toriが子供だった事実に罪悪感はあるが、それ以外は悪くなかった、機会があれば、また同様のことをするだろう”と言っていたと報道する。

他方でまた別のメディアが、Michael Thomas Raffertyがネットで大量の幼児ポルノのビデオファイルや幼児に対する性的虐待を加えているグラフィックをダウンロードしていたにもかかわらず、今回の裁判にはその事実を証拠の一部として持ち込むことが認められなかったことなどを報道する。

各メディアが競って世間の怒りを煽る情報を暴露する。

いみじくも最終判決で裁判官が言い放った”You are a monster!”。残念ながら、Toriはまるで悪い宝くじに当たったごとく、このモンスターの餌食になってしまった。死刑のないカナダでは無期懲役と言っても、25年後彼らにはちゃんと仮釈放というオプションが残されている。

本当にこれでいいのだろうか。

幼児の人格を全く無視した小児性愛者による犯罪は、カナダだけはなく、全世界で後を絶たない。

今回の事件の報道を耳にして、また考えずにはいられないことがある。

まず、小児性愛者であること自体が犯罪ではないはずだ。小児性愛者は先天的に大多数の人とは異なる性的嗜好性を持って生まれてきただけあって、それを故意に選択したわけではない。自ら選択できなかったことを違法とすれば、生まれたこと自体が犯罪になってしまう。

この場合違法性が問われるべきなのは、自分が小児性愛者ということを認識しながら、専門家の助けを求めず幼児に性的虐待を与えてしまう点、あるいは小児性愛者の周りにいる人間、家族や友達が気づいていながら、予見できた悲劇に対する回避策を何も講じなかったことにあるはずだ。

罪を犯してしまった小児性愛者を無期懲役にするか死刑にするかについてはケースバイケースで語られるしかないにしても、今回の場合のように25年後に仮釈放が認められる場合には彼らが出所した後の対応を社会の中で感情的にならず冷静に検討するべきだ。

現行法あるいは、現在の社会では小児性愛者の出所後の対応に大きな問題が潜んでいることに人々の多くが気づいていない。

通常、小児性愛者の出所が報道されると、誰もが思うのが、とにかく自分の近所には来てほしくない、この願いを反映して小児性愛者は幼児、児童が集まる公共の場の半径何メートル以内の距離に近寄ってはいけないなど、行政は様々な形で小児性愛者を人々の目の届かない社会の隅に追いやろうとする。出所する小児性愛者の数が日々増加する中で、社会の隅に消えてしまう彼らをトラックしようとする警察側の作業は更なる困難を強いられる。

ところがこの対応が子供たちにとって一番危険な選択であることにほとんどの人が気づいていない。

そもそも一度小児性愛者だというレッテルを貼られてしまった人間は、いつも子供たちの集まるところにいたら簡単に見つかって逮捕されてしまうことぐらい十分承知しているはずだ。それにもかかわらず、人々は最初から近くには来ないはずの人間に向かって近くに来るなと叫ぶ。

小児性愛者が出所した後に、人権問題を考慮しつつ行政が人々の声を聞き入れてそれを法制化するまでに、一体どれだけの時間とお金と労力がかかるかについて人々は本当に認識しているのか。

まして、この膨大な努力の結果が、人々の小児性愛者に対する嫌悪感を表面的に癒しているに過ぎないことを本当に理解しているのだろうか。

それどころか、実際には子供たちをもっと危険な状況に追いやっていることに気づいていないのではないか。敵がどこにいるか分からないことほど厄介なことはないはずだ。

小児性愛者が専門家の助けを借りて、社会に危害を加えないように生きていこうとする時に、それを全く正当性の欠如した感情ではねのけてしまうことによるつけは、必ず将来新たな悲劇となって回ってくる。

小児性愛者だけでなく、自己管理不能な性的嗜好性によって人を傷つけてしまう人間は、常時目の届くところにおいて犯罪を繰り返さないように監督することが社会に課せられた使命ではないのか。

これが実現できなければ、治癒不能な小児性愛者から本当に子供たちを守る社会をつくることができるとは思えない。

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