Kids with Gay Parents? – 変貌を続ける家族の形に戸惑う子供達

 
今週末は7月1日カナダデーウイークエンド。3連休になるこの週末、トロントは世界最大と言われるゲイパレードを目当てに訪れる世界各国からの観光客で、いつにない賑わいを見せている。

去年トロントの現市長Rob FordがMuskokaのHuntsvilleにあるコテージで家族と時間を過ごしたいという理由でパレードに姿を見せなかった。このことについてゲイコミュニティをはじめトロント市民の多くが、現市長の優先順位のつけ方について厳しい批判の声をあげた。Rob Fordeの言い分は、カナダデーの週末を家族とコテージで過ごすのは毎年の恒例行事ということで譲歩しかねるとのこと。言うまでもなく今回も同様の理由でパレード参加を見送るという。

トロントの市長がゲイ嫌いというのも変な話だが、まあ目くじらを立てるほどの話でもない。

偶然にも、今週末はフランスのパリでもゲイパレードがあるというニュースがRFIを通して流れてきた。フランスのメディアは5月の大統領選でNicolas Sarkozyを破って大統領に就任したばかりのFrançois Hollande大統領が、公約通り同性愛者の結婚と養子縁組の権利の法制化を来年ぐらいには実現すると報道している。この法制化が実現するとフランスは同性婚を認めるヨーロッパでは8番目、世界では12番目の国になるという。

案の定、フランスのParti chrétien-démocrateの党首Christine Boutinがこの法制化に強く反発を表明。同性愛者の結婚や養子縁組に対するキリスト教信者からの反発は今後も収まる様相を見せない。

今週の初めに何気なく流れてきたこのゲイプライドウィークに関連したニュースで、ちょっと考えされた瞬間があった。同性愛者を両親として持つ5,6歳の子供たちが、学校でトロントのゲイプライドウィークをお祝いするというシーンを見せながら、先生がインタビューでこんなコメントを漏らしていた。「同性愛者を両親として持つ子供達に、両親が共にお母さんだったり、あるいはお父さんだったりすることを周りの友達に隠さなくてもいいことをちゃんと伝えていきたい。」

世界的にも同性愛者の結婚が認められるほど進歩的な国、カナダでは、同性愛者の権利が尊重され、異性愛者同様に代理母出産や養子縁組という手段を使って子供を持とうとする同性愛者のカップルの数が急速に増えている。

公平、平等という見地からは、何の疑問も生まれるはずのないこの現象。同性愛者を両親にもつ子供たちの成長過程にこの現象による後禍がないのだろうか。

子供は大人よりも正直に思ったことを口にしたり、相手の気持ちを察することなく行動したりする。でもそれは周りの大人が無意識のうちに植えつけている価値観に影響されながら、子供が自然体で反応しているにすぎない。

両親が共にお母さんだったり、お父さんだったりすることは、必然的にいじめの原因をつくりだす。いじめはいつも少数派が標的になる。大多数とは違う少数派が犠牲になる。

いじめは通常幼稚園ぐらいから始まっておそらく高校まで続くのだろうか。

人間としてのベースがつくられるはずの思春期を含むこの10年以上にも及ぶ成長過程で、両親の性的嗜好によっていじめに悩まされる可能性があることを明確に認識しながら、それでもなお同性愛者は自分には子供を持つ権利があるという理由だけで、自己の欲求を満たそうとするのか。

ここまではっきり社会が対処できていない問題を認識しながら、それでもなお現行法は公平の論理だけで同性愛者が子供を持つことを無条件に許してしまうのだろうか。

同性婚は当事者同士にのみかかわる身分契約なわけで、第3者がそれによって影響されるわけではない。ところが、子供を持つことについてはどうだろうか。

生物学的に考えても、残念ながら、社会において同性愛者が少数派でなくなる未来がくるだろうか。両親が同性愛者だと言うことで子供がいじめにあわなくても済む将来がやってくるのだろうか。

ここで同性愛者が子供を持とうとする気持ちの善し悪しに言及するつもりはない。論理的には決して誤った価値観を訴えているわけではないのはよく理解できる。

しかしながら、これだけ進歩的なトロントでさえ、どんな差別も許されないと分かっていても、心の中では個人レベルの嗜好がある。仮にも、トロント現市長を務めるRob Fordでさえ明確に同性愛者に違和感を持っている。フランスのParti chrétien-démocrateの党首Christine Boutinでさえ同性の結婚や養子縁組に反発しているのという現実がある。

大人の多くが認識できないこの公平、平等、あるいは権利尊重の概念を5,6歳の子供に一体どうやって理解させようというのか。

価値観が著しく多様化する中で、人々は自己の利益を守ろうとして、公平、平等、権利尊重を唱道する。ところが、その判断のプロセスで、客観的、論理的根拠に頼ろうとするあまり、その結論が、個人レベルの嗜好を操作できないことを見落としてしまう。

そしてその後禍がしばしば過小評価されがちな現実に人々は気がつきもしない。

ここで同性愛者が子供を欲する思いを否定する意図は全くない。

ただ自己の欲求を満たす行為が、正当かつ合法であっても、第3者に将来的に長期間に渡って精神的苦痛を引き起こす可能性がある場合、かつ社会がほぼ永久的にその状況を打開できない事実が存在する場合には、現実的判断に基づいてその後禍を回避する選択をすることが少数派に課せられた義務ではないのか。

そして、もし同性愛者がそれを不公平と呼んだとしても、子供の幸福を一番とする社会にはその問いに答えるすべが見つからない。

カテゴリー: Unresolved Issues パーマリンク