How to raise successful children? - 成功の定義とは?

 
親が子供の将来を心配する気持ちはよくわかる。今週のニューヨークタイムズで”成功する子供の育て方”みたいな内容の記事が目に止まった。どんなことを書いているのかと期待して読んでがっかりする。

成功する子供、一体何をもって成功と呼ぶのかも定かでない時代に、過保護が子供をダメにするというようなコメントに始まって、一体具体的に何が過保護に当たるのかも語らないまま、最後は親が幸せな生活を送っていれば、それを子供が見て育つなどと聞かされると何を今更と思ってしまう。

こんな記事がトップに躍り出るというのは、やはり世間がつくりだす陳腐なおとぎ話のようなサクセスストーリーに踊らされる人が少なくないということなのだろうか。

地球は昔よりもすごく小さくなった。インターネットのお陰で国レベルと言うよりは世界、地球レベルで自分の今置かれている状況について考えられるようになった。

人は皆平等に自分自身の人生しか生きることができない。ところが、その素晴らしさに気づきもせず、周りを見て、人はよく私は、僕は、あの人みたいになりたいとか、生きたいとか、まるで自分の人生自体を軽視するような言動を発する。

子供の教育に親がどれだけ口出しすべきかなんてその親と子供にしかわからない。いや、多分その親と子供にもわからない。自分の人生しか分からない人間がどうして、他人に生き方を教えることができるというのか。逆に言えば、できなくて当然。ところが、それを勝手に一般化して、まことしやかに話しをする人たちがたくさんいる。

人はどうやって自分の人生を生きたかを伝えることはできても、人生をどうやって生きるべきかなんて、他人に教えることはできないはずだ。でもだから人生は生きる価値がある。

成功の定義も、幸福の定義も皆それぞれちがって当然。もし同じならそれは多分自分らしく生きていない証拠だ。

人は皆違う。でもだから面白い。同じだったらつまらない。

例えば、カナダには日本語を勉強したいと言う子供達がたくさんいる。これは日本人の子供が親に押されて英語を勉強したいと言うのとはちょっと訳が違う。周りの家族や学校の友達も誰1人として日本あるいは日本語に全く興味をもっていない中でなぜか日本語が好きだと言う。顔一杯に大きな笑みを浮かべながら話すその子供達がうらやましくさえ感じる。

子供が本当に必要なのは周りに影響されることなく自分の好きなことを見つけることだと思う。教育でもなく、宗教でもなく、哲学でもなく、理由もなく大好きな物を見つけることだと思う。もし見つけられたら、それが成功であり、幸福ではないのか。

人は誰でも周りにいる大切な誰かが幸せを感じている瞬間を目にするはずだ。一緒に何かしながら思いっきりほほ笑む瞬間。将来がこんなに不透明な時代にあって、親として、友達として、子供に1つだけ教えたいことがあるとしたら、このほほ笑む瞬間で一杯の人生を送ってほしいということ以外に一体何が言えるのだろうか。何をしているかなんてそんなに大きな問題じゃない。

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