Adam Lanza’s real motive stays elusive… -鳴り止まない銃声に戸惑うアメリカ

 
先週の12月14日(金)コネチカット州ニュータウンのSandy Hook Elementary Schoolで20人の小学生と6人の教師の命を奪った乱射事件。

加害者のAsperger シンドロームをかかえるAdam Lanza(20歳)は裕福な家庭に育ち、3年前に両親が離婚して、プール付きの大邸宅で母親との2人暮らし。Adamはこの犯行直前に自分のコンピューターのハードディスクをたたき壊して、母親を射殺しているという。そして、Hook Elementary Schoolで子供20人を含む26人を射殺した後、自分に銃を向けて発砲し自殺した。この時、加害者は加害者の兄、Ryan LanzaのIDを身に着けていたという。

ネット上で濡れ衣を着せられた加害者の兄、Ryan Lanza(24歳)がソーシャルネットワークを通して自分が犯人ではないことを訴えるとともに、メディアの報道でも現在New York Cityに住む父親とNew Jerseyに住むRyan Lanzaはこの事件に関与していないことが何度も繰り返されていた。

その後も様々なメディアを通してAdam Lanzaのプロファイルあるいは犯行の手口に関する確認不能な情報が氾濫し始める。

例えば殺された母親はガンマニアで、Adamを射撃場に連れて行き射撃の練習をさせていた事実。Adamがテレビゲームで射殺行為を含む過激なゲームに耽っていた事実。

無責任な情報が絶え間なく人々の憶測を駆り立てる。メディアが尤もらしく加害者を脚色し始める。

一瞬、メディアによる権力の濫用を強く感じる。親がガンマニアであっても、自閉症の子供が射撃場に連れて行かれて射撃の訓練を受けても、どんなに過激なテレビゲームに耽っても、正常にマインドが機能している人間は人を射殺したりしないはずだと内心叫んでしまう。

加害者もその加害者の犯行動機に深く関与していたと思われる母親ももはや存在しない中で、真相の究明ができるはずもない。ところが、それをいいことにメディアが人々の注意を引こうとする。主観が交じる確認不能な情報を錯綜させて視聴率を上げることに力を注ぐ。

オバマ大統領が銃規制に関して抜本的な改革を約束する。奇跡でも起こらない限り解決不可能な問題に関してまるで本当に何かが変わるように思わせるスピーチをやってのける。

自ら生み出してしまった窮境から抜け出そうとする時にその方法が見つけられないアメリカ。

CNNで銃規制に関するディベートが展開する。討論の中で一方がどんな理由にしても銃保持に反対するのに対して、他方が銃を自己防衛のためにもっと自由に使えるようにすることがこの問題の解決に繋がるという論理が真剣に語られ、ディベートは子供の喧嘩状態。

乱射事件がまるで初めて起こったかのように、罪もない小学生が殺されたことに過去に起きた事件とは違う怒りを口にする人達がメディアのインタビューに答える。

人間の命の尊さは年齢によって変わるというのか?…

自ら銃器をつくりだしておきながら、正当防衛にしてもその銃器を使用することを人々に許しておきながら、何か問題が起こるとすぐに銃に責任転嫁する論理がまことしやかに語られる。

シリアが人々を傷つけることを永遠にやめない状況をこんなにはっきり日々目にしていながら、人間を責めずに、武器に当たるのか。

今回の事件を銃規制の問題にすり替えるアプローチには賛同できない。

この悲劇はAdam Lanzaの尋常ではない人となりに気づいていながら何の対策も講じなかった周りの家族、学校の先生、友達、Adam Lanzaと繋がりを持っていた人達が自分には関係ないと見ないふりをした後禍以外のなにものでもない。つまり、責められるべきなのは、銃ではなく、加害者の異常に気づいていながら、横を向いていた人達全員なはずだ。

武器は人を殺したりしない。殺すのはそれを使う人間なのだ。

銃器はすでに社会に持ち込まれてしまっている。その規制についてどんなにディベートを重ねても解決方法が見つかるはずがない。なぜなら、規制が存在する理由はそれに従わない人がいなくならないことを証明しているからだ。決まりを守らない人間は規制が厳しくなっても数が減ることはあっても消えたりしない。

仮に銃規制が存在しなくてマインドが正常に機能している人間は、武器で人を傷つけてはいけないことを認識している。

銃を入手して犯罪に走る人間は銃規制に関係なく必要ならどんな手段に訴えても武器に手を伸ばす。銃規制なんて眼中にないはずだ。銃所持が許されていないカナダでも乱射事件が起こっている理由はまさにそこにある。

アメリカでNRA(National Rifle Association)がいみじくも「武器を持った悪者には武器を持った正義の味方しか太刀打ちできない。」と言い放って銃所持反対を訴える人々の感情を逆なでした。

彼らの論理は解決方法にはならないとしても、武器を社会から100%消し去ることが不可能であるという現実的な立場に立てば決して間違ってはいない。

繰り返すが、どんなに銃規制を厳しくしてもこの種の事件が永遠になくならないのは議論の余地がない。勿論、本当に100%この世の中から武器を消し去ることができるなら話は別だが。

ロシア、中国、北朝鮮、中東の国々を見る限りそんな世界が近い将来訪れるとは思えない。

今回の事件に関する限り、家族のうち、加害者として考えられるはずの2人が死亡している以上、残りの2人がたとえ知っていたとしても真実を語るとは思えない。状況が状況だけに自らの立場を危うくするような真実を語るとは思えない。時間と共に人々の記憶が薄れるのを待っているにちがいない。

銃ではなく銃が具現化したAdam Lanzaの怒りに目を向けて、社会における家族関係に始まる人間関係のあり方や、自閉症に限らず精神的に障害を持つ人々に対するさらなる理解、人間の弱さを責めずにそれを当然として受け止めて、しっかり問題と向き合う姿勢が求められるべきではないのか。

政府に対してMental Health Careにもっと予算を割くことや、銃規制をさらに厳しくすることを求めても、人々が見ないふりの態度を改めない限り、以前よりも頻繁にアメリカを襲うようになった銃声は鳴りやんだりはしないはずだ。

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