Doctor Assisted-Suicide Crusader, Gloria Taylor -尊厳ある終焉を迎える権利


Venezuelaの大統領Hugo Chavezが死去、Pope Benedict XVIの後継者が決まり、Suleiman Abu Ghaith(Osama Bin Ladenの義理の息子)がニューヨークの裁判所で無罪を主張、キプロスが破産寸前、そして、相変わらずの北朝鮮のニュースがメディアを賑わす。

そんな中で、カナダのCBCを通して流れてきた自殺幇助(積極的安楽死)に関するニュースを耳にする。卵巣癌で死の宣告を受けたオンタリオ州トロントに住むCindy Cowan(47歳)の尊厳死の合法性を訴える声に、2012年6月15日にBC州最高裁が下した自殺幇助(積極的安楽死)を合法的に認められるという判決を思い出す。

「ああ、あの控訴審が始まるんだ。」と思う。

2011年6月29日に原告側に加わって、この判決と共に自殺幇助 (積極的安楽死) を許されたAmyotrophic lateral sclerosis (ALS) に苦しむGloria Taylorがその約4カ月後の10月4日に亡くなって、連邦政府側は2012年7月13日にこのBC州最高裁の判決に対して控訴する意向を明らかにした。

BC州最高裁の判決のベースにあるカナダでは自殺は違法ではないが、高齢者、障害者、重病人にとっては、しばしばその行為の実行に幇助が必要で、それが許されないのは差別にあたるという論理。

例えば、拳銃を自分に向けて自殺しても決して罰せられない、肉体的な障害を持つ患者はそれができないからその手段を物ではなく、人に依頼する。自殺と異なるのは自殺を幇助した人間が殺人罪に問われてしまう点。

つまり、尊厳死を求める人たちの主張するところの患者が欲する自殺幇助は、その行為を事実上自殺行為に当てはめて、幇助にかかわった人達の殺人行為の違法性をなくしてしまう論理。

他方、控訴している連邦政府側は、自殺幇助の合法化によって、高齢者、身障者、知的障害者が悪質な殺人の犠牲者になる可能性について懸念しているという。

連邦政府もBC州最高裁の判決もどちらも決して間違ってはいないような気がする。

しかしながら、Cindy Cowanのケースだけでなく、尊厳死が問われるケースの多くは、本当に法律が介入すべき問題なのだろうか。

安楽死のディベートを耳にするたびにどうしても納得が行かない思いが心をよぎる。

人の一生は出生の時点で自分自身を受け入れることを強いられて始まる。そして、いつか必ず訪れる死を受け入れることも同様に強いられている。そんな中で、人が当然与えられるべき自己の死を決定する権利はどんな状況にあっても、どんな形にしても司法制度が介入すべき領域にはないような気がしてならない。

ふと最近カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を取ったAmourという映画を思い出す。

突然脳卒中に襲われ体の右半身が麻痺してしまう妻。その病状は徐々に悪化し、コントロールを失って行く。そしてその妻の看病に疲れ果ててしまう夫。映画の中で、看病に疲れた夫が最後には妻を殺してしまう。

高齢化が進む社会にあって、人々が目をそむけがちな醜い現実を隠さずに直視させるこの映画は、必ずやってくる人生の終焉を尊厳をもって迎えることの難しさを改めて認識させる。

つまり、尊厳死の合法性は不運にも若くして不治の病に襲われてしまった人達だけの問題ではなくなっている。

そしてこの尊厳が求められるのは死の瞬間だけではない。死に至るまでのプロセスで尊厳を失った時間の苦悩も存在することを忘れてはいけない。看病される者の辛さは、否応なく看病する者を巻き込んで行く。

意思能力を失ってしまった伴侶や肉親を無条件に看病し続けることが定義づける愛情の意味とは一体何なのだろうか。

行きつくところは同じなのに、尊厳死、自殺幇助、消極的安楽死、積極的安楽死、社会はその言葉遊びに忙しい。

問題は、原因が不治の病にせよ、不運な事故にせよ、患者本人がコントロールを失ってしまうこと。そして、その面倒を看る周りの人達がまるで自らの愛情を試されているかのようにその苦悩に引き込まれてしまうこと。

自己のコントロールを失った患者を持つ家族が体験する耐え難い日々の連続は、それを自ら体験した人にしか語れない。

生きている意味の定義は極めて主観的で医学にも法律にもそれを肯定することも否定することもできない。

つまり、自殺幇助は患者とその家族が正当な理由のもとに欲した場合は法律が介入するべき問題ではないことを社会が認識すべきだ。

そのことでたとえ高齢者、身障者、知的障害者が悪質な殺人の犠牲者になる可能性について司法制度が懸念したとしても、高齢化が止まらない社会には他にはもう選択肢が残されていない。

自殺幇助に訴えて尊厳死を求める権利の有無を決めるのは、医者でもなく、まして裁判所でもなく、患者本人あるいは家族であること。法律はその行為の違法性を問うのではなく、最新医学の力を借りて、患者とその面倒を看る家族の苦悩をどうやって取り除くことができるのかを模索していく必要があると言える。

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