Did E. Snowden have to do that? -背後で激化するサイバー戦争の脅威


6月9日(日)、元CIA職員のコンピューターテクニシャン、Edward Snowden(29歳)が英ガーディアン紙を通じて米連邦捜査局(FBI)と国家安全保障局(NSA)がインターネット上でアメリカ国民の個人情報を入手していることを暴露した。あからさまな内部告発と言える12分間のビデオインタビューが実名入りでインターネット上に発信された。

一瞬あのウィキリークスのJulian Paul Assangeを思い出す。

そして、その後すぐに、そう言えば、前々日に、シリアの反政府活動家Mohamed al-Hadiがスカイプでアレッポ近くにあるミング空港で反政府側が攻撃を仕掛けた情報を入手直後に、アメリカ側がその内容を盗聴していた事実を知って激怒したというニュースが流れ、また、前日にはイランや北朝鮮からのサイバー攻撃防御のためにアメリカが、関係国のサイバー防御システム構築を援助し始めているニュースが報道されたのを思い出す。

Edward Snowden?

高校中退でCIAのコンピュータテクニシャンとして、年俸20万ドルの給料をもらっていたという。

それにしても、並はずれた能力を持ち合わせているはずの彼がなぜこんな行動に出たのか。

これで、彼はおそらく、自国から訴追を受けて、捕まれば無期懲役。それどころか、周りの家族や、ガールフレンド、友人に与える影響は計り知れない。

ビデオの中で、「米政府がつくりあげたPRISM (NSA’s surveillance program)がプライバシーや基本的自由を侵害していることに自己の良心が耐えられなくなった。」というコメントが流れた。

「真剣に言っているのか?」と思わず声を出してしまう。

Edward Snowdenは一方で、アメリカに損害を与える意図はないと言っておきながら、アメリカが中国のハッキング行為を厳しく糾弾しているところに、アメリカが中国に対してハッキング行為を行っていたことも暴露した。

「この人一体何をしようとしているのか。」と思わず叫んでしまう。

ある程度の集客力を持つウェブサイトを運営している人なら、サイトアクセスに関する分析レポートを見れば、ロシア、中国、イランが世界各国に対してハッキング行為に忙しいのは一目瞭然。そんな中で、自分たちが一番、世界平和は自分たちがコントロールスすると思っているはずのアメリカがハッキングをしていたことに今さら驚くだろうか。

正直、こんなことに驚いて、プライバシーの保護と国家安全のどちらが大事かをディベートすること自体マインド的には遅れている気がする。

今回のEdward Snowdenの内部告発行為は、プライバシーの侵害を問題視した意図は理解できるにしても、結果的には、ただ単に彼自身が世界の問題児的国々に自己の能力をマーケットしているようにしか受け取れない。

それにしても、デジタル社会が生み出したサイバー戦争の現状は、本当に、プライバシーが保護されていないことに腹を立てていられるような段階にあるのか。

このサイバー戦争に勝ち抜くためにアメリカは国民のプラバシーを犠牲にして、かつその犠牲にしている事実をひた隠しにしてきたにちがいない。

どんなにオバマ大統領と習近平国家主席が対談しても、水面下でのサイバー戦争は狐と狸のばかし合い状態。

思えば、911以来、人々は、国家の安全のために、空港でのセキュリティチェックで、ベルトを外させられ、靴を脱がされて、体のあちこちを触られることを受け入れてきた。

つまり、プライバシーの権利は、法的に与えられた権利の1つに過ぎない、但し、その権利を濫用して、テロ行為に出る人間が出てしまっている以上、国家の安全のために、この権利保護に妥協を強いられることについては世界的レベルで暗黙の了解があるように思う。

どう考えても、オバマ大統領がPRISM(NSA’s surveillance program)を悪用しようとしているとは思えない。

プライバシーの侵害があったとしも、侵害された側がそれに気づくことなく、かつ、物理的な損害を受けているわけでもない場合は、プライバシーの侵害の定義がデジタル社会の状況に即した形で、それが許容範囲内であるよう再定義されるべきではないのか。

つまり、Edward Snowdenほどの能力とあれだけの覚悟がある人間が、本当にすべきことは、内部告発に終わることなく、その先にある内部の人間がその権利を濫用できないようなシステムの構築に貢献することではなかったのか。

アメリカからの訴追を免れるはずのないEdward Snowden。アイスランドへの亡命、ロシアあるいは中国が彼を受け入れるのではないか等、噂がメディアを賑わす中で、既に香港立法府のClaudia Moが香港が唱える自由主義は、現実には、日常的に制限を受けていて、政治的チャレンジを強いられているというEdward Snowdenの期待に反するコメントが報道された。

そして、現在、Edward Snowdenは行方をくらましている。

一方でオバマ大統領がプラバシーを100%保護しながら、国家の安全を100%守ることは不可能だと明言している。

もっともだと思う。

日常既にあって当然のように感じているデジタル社会がもたらした便利さの代償は、今後も、間違いなく、隙があれば、その便利さを濫用しようとする国あるは個人よって、あらたな権利侵害の問題を呼び起こすにちがいない。

デジタル社会が生み出した全く新しい価値観に、どんなに拡大、拡張解釈をしても、古ぼけて立ち止まったままの憲法がその答えを出してくれるとは思えない。

やがて、法律がデジタル社会を正当に管理できる時が来るまで、既存の権利を濫用する現象が起こるごとにパッチワーク的に対処していくことしか現実の社会には選択肢が残されていない。

その時に人々に最も求められるのは、あの911を2度と起こしてはいけないという思い。

人の命を第一に考えるために、個人の権利の保護について自ら進んで妥協を受け入れるマインドセット。そして、その妥協によって無実の一般人がいかなる形にしても、妥協の犠牲者にならないようなシステムの構築を政府にしっかり要求していくことではないのか。

今回のEdward Snowdenによる内部告発は、ソーシャルネットーワークの名の下に、ネット上に個人情報を無防備にアップロードしてしまう人達に対しては、ある意味ウェークアップコールになったはずだ。

同時に、水面下で激化の一途をたどるサイバー戦争の脅威に対する世間の認識を高めたにちがいない。

いずれにしても、デジタル社会が従来守られるべきだと考えられていた権利が濫用者によってなし崩し的に保護されなくなる現象は今に始まったことではないはずだ。

そして、言うまでもなく、これで終わったりはしない。

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If Canada doesn’t help you, Québec will! -注目されるべきケベック移民政策


先週、ようやく5月から受付を再開するカナダ連邦スキルワーカークラス新基準の詳細が発表になった。これを読むとスキルワーカーに関する限り、基本的に仕事のオファーがない場合、移民省指定の24職種に属さない人はカナダ永住権取得への道が断たれたというように一瞬見えてしまう。

この報道を読みながら、ふと何年か前に会った日本人女性の話を思い出す。

日本の大学でPhD(博士号)をまもなく取得する過程にあって、リサーチ目的でカナダを訪れていた彼女。社会や、家族や、俗に言う世間体からのプレッシャーをあまり感じることがない環境に置かれていた彼女が、ため息をつくように言い放った一言。「もう日本には帰りたくない。」

カナダでは彼女が博士号をとるために勉強していることを周りの友達は皆、羨ましく思っている。能力に恵まれて研究に没頭する人間のひた向きな姿が讃えられるのは当然なのにもかかわらず、日本に帰ると近所の人達から「あそこの娘さん、30過ぎてまだ結婚もせずに、大学院で博士号の勉強してるんだって…」と、変わり者扱いされるというのだ。

あまりにも馬鹿げた状況にコメントもできなかった瞬間。

人間が他人の意見や時代遅れの価値観に惑わされずに正直に自己が欲することを追及している姿を見て、どうしてそんな評価が出てくるのか。勿論、彼女は予定通り日本に帰った。

どうやっても変わらない社会、そして、それ以上に立ち止まったままの人の心が、目に見えない大きな壁を社会に創り出しているのだろうか。

ふとケベック州が打ち出しているユニークな移民プログラムについて思い出す。

連邦政府が掲げるエコノミッククラスの移民申請要件の中には、カナダで生まれ育った人々の多くでさえ満たすことのできない条件が数多く含まれている一方で、同じ国でありながらフランス語圏が持つ、社会のバランスを第一に考慮したとも思われる独自の移民政策にはひどく興味をひかれる。

移民の国カナダで、英語が上手く話せないフランス語圏の人達は、社会の現状を連邦政府よりもより現実的な立場でとらえている気がする。

社会は高学歴でハイプロファイルな職業についている人達だけで構成されているわけではない。学歴では測れない人間の能力を上手く社会に反映させようとする移民政策。ようやく自分らしく生きることの意味を理解する20代後半から30代半ばぐらいの時点で、キャリアを180度転換して自分らしく生きられる土地で新たな生活を始めることを欲する人達に対して、ケベック州は現実味のあるソルーションを提供している。

言うまでもなく、ケベック州の移民プログラムでケベック州に移民することは基本的には連邦政府の移民プログラムで移民することと何ら変わりはない。ケベック州に移民した後に、他の州でいい仕事が見つかったらそこに移っても勿論全く問題はない。

ところが、ケベック州がフランス語圏であるため、例えば、連邦政府から公認を受けている移民コンサルタントでさえ、フランス語ができなければケベック州に移民を希望するクライアントの申請代行業務を行う資格が与えられない。つまり、ケベック州が提供しているユニークな移民プログラムのプロモーターがなかなか増えない現状がある。公用語でありながらフランス語と言うだけで、ケベック州以外の英語圏に住むカナダ人の多くが食わず嫌い的に近寄ろうともしないケベック。言葉の違いが生み出だすカナダとケベック州の距離を越えられないまま、ケベック州の移民プログラムは連邦政府の陰にすっかり隠れてしまっている。

もし本当にカナダで生活する選択肢を十分な学歴や職歴がない、カナダの雇用主が見つからないという理由だけで諦めている人がいるとしたら、ケベック州のプログラムは検討する価値があることを強調しておきたい。

ケベックスキルワーカーにパスする具体的な例を参照したい場合はここをクリックしてください。

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Offshore secrets of the rich exposed…-聖域に隠れた富裕層が狙われる時


政治家や弁護士が欲に目がくらんで、オフショアアカウントを利用して脱税行為に走るニュースが流れる。フランスでbudget minister, Jérôme Cahuzac、カナダで集団訴訟の専門弁護士Tony Merchantがやり玉にあがる。

世界中のあちこちで汚職が語られる中、こんな脱税のニュースを聞かされても誰もが”What else is new?”と呟いて終わってしまう今日この頃。

まさか政治家や弁護士がプレスコンファレンスを開いて、「魔が差して脱税した」と発表するはずもないと思った瞬間、メディアがここぞとばかりに爆弾を投下する。

CBCやニューヨークタイムズを通してThe International Consortium of Investigative JournalistsがThe Guardian, Asahi Shinbun, Le Monde, The Washington Postを含む世界のメジャーメディアと協力してオフショアアカウントを使った富裕層の脱税行為の証拠を入手したというニュースが流れる。その規模は過去最大!!!

ええー?

勿論、富裕層がオフショアアカウントを使って脱税行為に走るのは今に始まったことではない。

一体なぜメディアが団結してこんな行動に出たのか。妙に気になってニュースに聞き入る。

報道によれば、今回のリークは主にthe British Virgin Islands, the Cook Islands そして Singaporeをカバーする 250万にも及ぶ富裕層の脱税行為を証明する財務情報ファイル。その中には12万社に及ぶ企業や世界の170カ国の富裕層を含む約13万の個人やエージェントの非公開財務情報が含まれていたという。

報道の中で公開された著名人の中には、Jean-Jacques Augier(2012年のフランス大統領選で、現フランソワオランド大統領のco-treasurer務めた人物) 、Olga Shuvalova(ロシア副総理夫人)、Maria Imelda Marcos(故マルコス大統領の娘)の名前が挙がっていた。

世間一般から高給取りと言われている一部上場企業の管理職にある人達や俗に言う高級官僚でさえ、想像もつかないような超現実的な数字が次々と耳に入ってくる。

報道されたあまりにも現実からかけ離れた数字に、超富裕層と言う意味を改めて認識させられる。

報道内容の中で、McKinseyコンサルティンググループの元チーフエコノミストからのコメントが引用されていた。富裕層の中にはUS$32兆ドル(約2,880兆円)相当をオフショアアカウントに隠しこんでいた個人が存在したという。

32兆ドル??? 本当に個人資産の話をしているのか?

政治家が貧富の差をなくそうとしているようなふりをして、弁護士は正義を追及するようなふりをして、権力を手にした人達は陰で財力を増やすことに夢中になっている。

そして2013年4月現在、世界のあちこちで経済危機が語られる。

“Don’t be so naïve!” と自分に言い聞かせながらも、このニュースには正直驚きを隠せなかった。

トロントの街角で小銭を乞うホームレスの姿が視界に入ってきた瞬間に、なぜかこの32兆ドルと言うあまりにも現実離れした数字を思いだして妙に不快な気分になった。

世界が、社会が、法によって人々が時に倫理観を失った行動に出ることを牽制しようとしても、財力をベースに権力を手にした人々が法の手が届かない聖域に逃げ込もうとする流れを止めることはできない。

振り返ると、自由競争の原理に基づく社会がスタートした時点で、今の事態が必然的にやってくることをどうして分からなかったと言えるのだろうか。

人間は能力的に決して平等に生まれてこない。どんなに人々が平等を唱えても、先天的な能力差を100%埋め合わせる機能を現行社会の仕組みは有していない。

例えば、100人の人間で構成される社会があったとする、その100人について財力を築く能力を比較したら、たとえ、人生が往々にして運、不運に左右される事実を考慮したとしても、1番と100番の違いは既にスタート時点で明確に存在する。

それが10年後、50年後、100年後、リセットできないほど大きな貧富の差になることをどうして予想できなかったと言えるのだろうか。こんな単純な原理を理解するのに、経済学者である必要はないはずだ。

貧富の差がどうしようもないレベルに達する前に、人々は政治家がその貧富の差をなんとかアジャストしてくれると信じている一方で、インターネットが見せる世界事情のスナップショットは、経済危機が悪化すればするほど自己の利益を守ろうとする政治家を含む権力者たちの姿を映し出す。

明らかに、従来正しいと信じられていた社会の仕組み自体が機能していない。

富裕層のオフショアアカウントを利用した脱税行為を幇助した金融機関があって、なぜかその行為を法が取り締まることができていない事実。

社会を構成するおそらく90%以上の人間が、表面化しなければこの脱税行為の違法性に関心も持っていない事実。

経済危機が世界レベルでここまで悪化しなければ、メディアも今回のような行動に出なかったのだろうと思える事実。

ここで富裕層の脱税行為を弁護するつもりは毛頭ない。ただ、脱税の誘惑に負けた富裕層心理をどんなに責めても根本的な解決にはつながらない。

いずれにしても、おそらく、メディアが示唆するように、現時点まで救いの手を差し伸べようともしない世界中の超富裕層の力で、今の経済危機を救えるという暗示には120%同意せざるを得ない。

しかしながら、仮に富裕層の助けによって今の経済危機から脱却できたとしても、救われた後の社会の仕組みが人間の先天的な能力差を考慮して改善されない限り、経済危機はまた必ずやってくることを忘れてはいけない。

この問題を根本的に解決できない限り、富裕層はこれからも新たな聖域で財を成し続け、貧困に苦しむ人達はまたさらに貧しくなっていくにちがいない。

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Doctor Assisted-Suicide Crusader, Gloria Taylor -尊厳ある終焉を迎える権利


Venezuelaの大統領Hugo Chavezが死去、Pope Benedict XVIの後継者が決まり、Suleiman Abu Ghaith(Osama Bin Ladenの義理の息子)がニューヨークの裁判所で無罪を主張、キプロスが破産寸前、そして、相変わらずの北朝鮮のニュースがメディアを賑わす。

そんな中で、カナダのCBCを通して流れてきた自殺幇助(積極的安楽死)に関するニュースを耳にする。卵巣癌で死の宣告を受けたオンタリオ州トロントに住むCindy Cowan(47歳)の尊厳死の合法性を訴える声に、2012年6月15日にBC州最高裁が下した自殺幇助(積極的安楽死)を合法的に認められるという判決を思い出す。

「ああ、あの控訴審が始まるんだ。」と思う。

2011年6月29日に原告側に加わって、この判決と共に自殺幇助 (積極的安楽死) を許されたAmyotrophic lateral sclerosis (ALS) に苦しむGloria Taylorがその約4カ月後の10月4日に亡くなって、連邦政府側は2012年7月13日にこのBC州最高裁の判決に対して控訴する意向を明らかにした。

BC州最高裁の判決のベースにあるカナダでは自殺は違法ではないが、高齢者、障害者、重病人にとっては、しばしばその行為の実行に幇助が必要で、それが許されないのは差別にあたるという論理。

例えば、拳銃を自分に向けて自殺しても決して罰せられない、肉体的な障害を持つ患者はそれができないからその手段を物ではなく、人に依頼する。自殺と異なるのは自殺を幇助した人間が殺人罪に問われてしまう点。

つまり、尊厳死を求める人たちの主張するところの患者が欲する自殺幇助は、その行為を事実上自殺行為に当てはめて、幇助にかかわった人達の殺人行為の違法性をなくしてしまう論理。

他方、控訴している連邦政府側は、自殺幇助の合法化によって、高齢者、身障者、知的障害者が悪質な殺人の犠牲者になる可能性について懸念しているという。

連邦政府もBC州最高裁の判決もどちらも決して間違ってはいないような気がする。

しかしながら、Cindy Cowanのケースだけでなく、尊厳死が問われるケースの多くは、本当に法律が介入すべき問題なのだろうか。

安楽死のディベートを耳にするたびにどうしても納得が行かない思いが心をよぎる。

人の一生は出生の時点で自分自身を受け入れることを強いられて始まる。そして、いつか必ず訪れる死を受け入れることも同様に強いられている。そんな中で、人が当然与えられるべき自己の死を決定する権利はどんな状況にあっても、どんな形にしても司法制度が介入すべき領域にはないような気がしてならない。

ふと最近カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を取ったAmourという映画を思い出す。

突然脳卒中に襲われ体の右半身が麻痺してしまう妻。その病状は徐々に悪化し、コントロールを失って行く。そしてその妻の看病に疲れ果ててしまう夫。映画の中で、看病に疲れた夫が最後には妻を殺してしまう。

高齢化が進む社会にあって、人々が目をそむけがちな醜い現実を隠さずに直視させるこの映画は、必ずやってくる人生の終焉を尊厳をもって迎えることの難しさを改めて認識させる。

つまり、尊厳死の合法性は不運にも若くして不治の病に襲われてしまった人達だけの問題ではなくなっている。

そしてこの尊厳が求められるのは死の瞬間だけではない。死に至るまでのプロセスで尊厳を失った時間の苦悩も存在することを忘れてはいけない。看病される者の辛さは、否応なく看病する者を巻き込んで行く。

意思能力を失ってしまった伴侶や肉親を無条件に看病し続けることが定義づける愛情の意味とは一体何なのだろうか。

行きつくところは同じなのに、尊厳死、自殺幇助、消極的安楽死、積極的安楽死、社会はその言葉遊びに忙しい。

問題は、原因が不治の病にせよ、不運な事故にせよ、患者本人がコントロールを失ってしまうこと。そして、その面倒を看る周りの人達がまるで自らの愛情を試されているかのようにその苦悩に引き込まれてしまうこと。

自己のコントロールを失った患者を持つ家族が体験する耐え難い日々の連続は、それを自ら体験した人にしか語れない。

生きている意味の定義は極めて主観的で医学にも法律にもそれを肯定することも否定することもできない。

つまり、自殺幇助は患者とその家族が正当な理由のもとに欲した場合は法律が介入するべき問題ではないことを社会が認識すべきだ。

そのことでたとえ高齢者、身障者、知的障害者が悪質な殺人の犠牲者になる可能性について司法制度が懸念したとしても、高齢化が止まらない社会には他にはもう選択肢が残されていない。

自殺幇助に訴えて尊厳死を求める権利の有無を決めるのは、医者でもなく、まして裁判所でもなく、患者本人あるいは家族であること。法律はその行為の違法性を問うのではなく、最新医学の力を借りて、患者とその面倒を看る家族の苦悩をどうやって取り除くことができるのかを模索していく必要があると言える。

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Is Oscar Pistorius off-limits in South Africa? - 真実を問わない司法制度


2008年北京パラリンピックの100m走、200m走、400m走で金メダル三冠を達成し、2012年ロンドンオリンピックでは義足ランナーとして健常者の大会にも参加するという、前代未聞の偉業を達成。Blade Runnerの異名を持つOscar Pistoriusが成し遂げた奇跡は、自国南アフリカだけでなく世界の多くの人々を魅了した。

その南アフリカのヒーロー的存在であるはずのOscar Pistoriusが、2月14日のバレンタインデーに恋人のReeva Steenkampを殺害したとして起訴された。そして先週4日間にわたる保釈審理の末、Desmond Nair判事はOscar Pistorius被告の保釈を認める決定を下した。

保釈金は one million rand(約$112,000)、南アフリカにおける殺人事件の裁判でこれだけの保釈金が被告側に課せられるケースは極めて珍しいという。勿論、南アフリカでは法外だと思われるこの保釈金額がOscar Pistorius被告にとってはそれほど大きな負担にならないことは言うまでもない。

6月4日に公判が開始するまでこの保釈金以外に、Oscar Pistorius被告は現在所持する銃砲類、パスポートを押収され、目撃者にコンタクトすることを禁止され、殺人現場と認定された自宅を明け渡すことを強いられ、さらに現居住地Pretoriaを許可なく出ることも禁止された。また、公判開始まで週に2回警察に出頭してレポートすることが義務づけられ、公判が終わるまで薬やアルコールの摂取を止められたと報道されている。

「ヒーローだからって殺人罪を免れてはいけない。」と誰もが思うはず。

そして、今回の保釈審理中に捜査を主導した刑事Hilton Bothaが7件の殺人未遂容疑で捜査対象となっていることが発覚した。審理中に信頼性を欠く証言を何度となく繰り返したHilton Botha刑事は勿論それ以後ケースからはずされた。

Hilton Botha刑事の容疑の中には、ミニバンの外側から発砲したという事件が含まれているとの報道が流れる。

そんな人間がバスルームの外から発砲した人間の犯した殺人罪の捜査をしていたのか。そして被告に都合のいい証言をしようとしていたのか。

メディアの街頭インタビューでは、Oscar Pistoriusが南アフリカに今までどれだけ貢献してきたかを考慮すれば保釈が下りて当然だという声がライブで流れてくる。インタビューを受けた女子中学生が「彼はわざとやったわけじゃないから、悪くない。」と答えてしまう。南アフリカにおいてOscar Pistoriusがどれだけ偶像化されているかがうかがえる。

このメディアからの報道を聞いただけでも、「一体どうやって南アフリカでOscar Pistorius被告に対する公平な裁判を行うことができるというのか。」という思いに駆られる。

南アフリカでは毎日のように汚職事件や強姦殺人事件の記事がメディアを賑わすという。日常茶飯事的に目にする凶悪事件に免疫力を高める人々のモラルの低下は国を堕落させ、既に国民のほとんどが人間ひとりの命の尊さを正確に測る機能を失ってしまっている印象を受ける。

事実上、有罪か無罪かは裁判官が判断するのではなく、単なる政治的パワーゲームの結果が正義と呼ばれる社会。つまり、人ひとりの命の重さはどれだけ南アフリカに貢献しているかによって裏で政治的に決められてしまう社会。7件の殺人未遂容疑で捜査対象となっているHilton Bothaが今回の保釈審理に参加していたこと自体まさにそのことを示唆していると言える。

今回の保釈審理はOscar Pistorius被告が有罪か無罪かを決める審理ではなかったにしても、Desmond Nair判事は保釈を認める判決を言い渡す中で、Oscar Pistorius被告側の言い分に対して、なぜバスルームの外側から、中に誰がいるのかを確認もせずに発砲したのか、なぜ強盗が侵入したと思われるノイズに気づいてベッドから起き上がった時点で、隣に寝ているはずのReeva Steenkampがいないことに気づかなかったのか、なぜ不法侵入者の存在に気づいた時点で、携帯電話で助けを求めることはいくらでもできたはずなのに、逃げようともせず、危険を冒してまでも立ち向かおうとしたのか、6月4日の公判での焦点となるべき論点を鋭く示唆した。

実際に、iPhoneが2台バスルームに、BlackBerryが2台ベッドルームに事件当時あったことが明らかになっている。また、使われた拳銃のケースがReeva Steenkampが寝ているはずのベッドの下に置かれていたという。それなら、Oscar Pistorius被告がReeva Steenkampが犯行時点でベッドにはいなかったことを認識していたことになる。

近所の住人の証言によれば、犯行直前ともいえる午前2時から3時の間にどう聞いてもいい争いとしか思われない男女の叫び声が聞こえてきて、17分間ぐらいの間をおいて2度に渡って連続して発砲された数発の銃声が鳴り響いたという。

Oscar Pistorius被告の証言によればベッドルームは暗くてReeva Steenkampがいるかどうかはよく見えなかったというが、近所の住人の証言によれば、しっかり明りはついていたという。
Oscar Pistorius被告のベッドルームからはテストステロンと思われるドラッグと注射器が発見されて鑑識に回されている。また、ベッドルームの金庫からは違法に所持していた推定される38口径の拳銃が発見されている。

そしてさらに2月24日Oscar Pistorius被告の兄、Carl Pistoriusが業務上過失致死罪で訴追されているというニュースが流れた。駄目押しの一発。

この時点でこのケースではもう真実は問われないことを理解した。

ため息がでる。国全体が自国の司法制度が汚職によって機能していないことを受け入れている。

明らかに南アフリカにとっては真実よりも、Reeva Steenkamp の命よりも、もっと大切なのはOscar Pistoriusが国にもたらす栄誉、そしてその経済効果。つまり、この殺人事件を何もなかったように逃れようとしているのは、Oscar Pistorius被告というよりはむしろ、南アフリカ自体なのかもしれない。

Reeva Steenkampの父親がメディアのインタビューに答えて言い放った一言:Oscarが本当のことを言っているのであれば、いつか彼のしたことを許せるかもしれない。

残念ながらもはや真実を語ることができるのは Oscar Pistorius しか残っていない。

そしてその彼が真実を明かしてくれるとは到底考えられない。

こんな状況で6月4日に予定されている公判の意味が本当にあると言えるのだろうか。

彼の弁護団がどんな手段に訴えても、Oscar Pistorius被告を無罪放免にしようとして南アフリカがそれを受け入れるというのなら、それはもうメディアがあるいは国際社会が干渉できる領域を逸脱しているように感じる。

犠牲者Reeva Steenkampはもうほとんど話にも出てこない。

南アフリカがそこまでしてOscar Pistorius被告を無罪放免にしたいのなら、” So be it ! “。

ただ、せめてReeva Steenkampを失った家族が娘の死を乗り越えて再出発するためにも、あのバレンタインデーの日、あのOscar Pistoriusの大邸宅の中で、本当に何があったのかをいつの日か被告本人の口から伝えて欲しいと願わずにはいられない。このショッキングな事件でいつもより幾分興奮気味のメディアにはそのための努力をもっとして欲しい。

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We are all accomplices, aren’t we? - 需要と供給、どっちが有罪?


先週のニューヨークタイムズで「米ヒューレット・パッカード社が、生産を委託している中国の工場内で働かされている学生や臨時作業員の雇用条件に関して、中国側に新たな制限を課し始めた。」と報道された。これは米Apple社が中国の労働者搾取の現状を問題視して、昨年Fair Labor Associationに加わったのと同様の趣旨によるものだ。

中国では海外の大規模な製造業者と生産委託契約を結んでいる工場が、定期的にやってくる超短納期の大口オーダーに対応するために、高校生、職業訓練校の学生や臨時作業員を労働力として駆り出すというのはごく一般的な話だという。しばしば学校側が政府から圧力をかけられて、生徒を無理やり工場に送って働かせる。生徒はなぜ学校教育とは全く関係のないことをここまで長時間にわたって強いられるのかとクレームを入れるが、勿論中国政府も学校側もそんなクレームに耳を貸すはずもない。そして学校の理事がお礼として工場側からボーナスを受け取るという。

「こんな相変わらずの中国らしさを報道されてもニュースにもならない。」とため息が出る。

その一方で、こんな労働者搾取が自国では絶対に許されないことを知りながら、超短納期で中国に生産を依頼する海外の製造業者は、もう長い間この問題に関して見て見ぬふりをしてきた。彼らが本当に中国の労働者搾取問題を重大に受け止めているなら、中国以外の国をサプライヤーとして選択することはいくらでも可能だったはずだ。

そして、昨年米Apple社が、先週米HP社が正義の味方のふりをし始めた。いつものアメリカが顔を出す。ダメージコントロールは彼らのマーケティングの戦略の一部にすぎない。

きっとまた何も変わらない。いや、間違いなく、何も変わらない。

中国側の目には「注文された製品は、超短納期にもかかわらず、しっかり納品されて、製品自体に全く問題ないにもかかわらず、アメリカ人はなんでこんな文句を言ってくるのか。まあ、言いたいなら、言わせておけ。彼らは饒舌だけが取り柄の人種だから。好きなだけ言わせて分かったふりをすればそれで終わる。どんなにあれこれ言われても、彼らに24時間我々を監視できるはずもない。それにしてもこんなに他国の問題に口を出したがる国も珍しい。」。

アメリカ側の目には「インターネットのせいで世界に内情が筒抜けだから、一応正義の味方のふりだけはしておかないといけない。何を言ってもあの中国は中東と同じで永遠に変わるはずもない。でも国際社会にはやっぱり正義の味方だと思われなきゃいけない。それにしても中国の人件費が先進国並みになる前にもっと儲けないといけない。急がないと。」。

ふと、昔ニューヨークタイムズで、日本人が珍しい犬を欲しいがために多くのブリーダーが危険な交配に走っている状況を批判されたのを思い出す。消費者が珍しい犬ならいくらでもお金を出すというトレンドが、ブリーダーを危険な交配へと誘惑した。危険でも金儲けには代えられないというその誘惑に負けて、体に欠陥を持った犬が次々に生みだされ、売り物にならなくて即ゴミ箱行きにされたという話。中には生まれた瞬間は健康そのものに思われる子犬でさえも2年もたたないうちに突然発作を起こして死ぬケースが相次いだという話。法律では罰せられていないこの行為を目の当たりにしたライターがいみじくも最後に言い放った一言:

「消費者が欲しがらなければ、ブリーダーはつくらない。」、「ブリーダーがつくらなければ、消費者は買えない。」

悪者は一体どっちなのか?

労働者を搾取する中国、それを悪いと批判しながら中国に生産拠点を移す多くの先進国、そして出来上がった目の前にある物だけを見て大喜びの消費者がいる。

最近はトロントの街中を歩いていても、レストランにいても、カフェにいても、15年ぐらい前に日本の電車の中で見られたトレンド、つまり、取りつかれたように携帯メールを友達に流し続ける子供達が増えて、おそらく中国でつくられたはずのスマートフォンによって、このトレンドが今や北米にも浸透しているのがわかる。手がつけられないのは、ところ構わず大声で話をする饒舌文化をもつ北米では、イヤホンをつけた人が電車の中だろうが、カフェだろうが、ところ構わず大声で話をする声がプラスされる。家族とあるいは友達と、彼あるいは彼女と電話であるいはテキストで一日中繋がっていなければいけない理由が本当に存在するのだろうか。

中国の労働者搾取は今に始まったことではない。そしておそらく、国際社会からの批判を受けてもすぐに変わるとは思えない。

あくまで利益を追求することしか頭にない海外の製造業者は、中国の安い人件費と超短納期を二つ返事で受け入れる中国の体質が変わらない限り、上辺では正義の味方を装っても、中国をサプライヤーとしてキープし続けるだろう。

つまり、この問題を唯一解決できる力を持っているのは、中国でもなく、アメリカでもなく、スマートフォンを24時間ノンストップで不必要に使い続ける消費者自身、不必要な新機能が搭載された次期モデルを待ちこがれるオタク系の子供達自身。

彼らがガジェットの不必要性に目覚めて、デジタル社会のデカダンスをから脱却しようとしない限り、彼らは中国の労働者搾取を煽る共犯者であって、中国に生産拠点を移す米製造業者を中傷したり、中国政府の行動を批判したりする正義の味方には到底なりえないことをしっかり認識してほしいものだ。

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When chips are down, just hang in there… -人生はそんな簡単に完結しない


20代、30代に幸福を絵にかいたような人達が、10年たって、20年たって状況が一変してしまう話は本当に珍しくない。勿論、その逆についても同様のことが言える。

おそらく、誰もが忘れがちなのが偶然の重なりがつくりだす幸福感や絶望感の意味。

俗に言う偶然のいたずらは、時に人に必要のない精神的ダメージを与えてしまう。

ふとある女性の話を思い出す。つい最近夫を交通事故で失って立ち直ろうとする。皮肉にも彼女自身が40代のセラピスト。実は彼女は息子をまもなく出産しようとしていた時に、流産して精神的に不安定な状態に陥った元患者に誘拐され、麻酔で眠らされて、殺されかけている。結果的には間一髪で命を救われ、子供も無事に出産したものの、結婚生活は短いハネムーンの時期を過ぎた後は喧嘩が絶えない状況が最後まで続いていた。そして夫を事故で失った今、周りの友達が、皆幸福の絶頂にあるように見える偶然の一瞬にとらわれて、自分の人生は既に終わってしまったと落ち込んでいる。

状況は千差万別であっても、年齢に関係なく、誰もが人生の中で他人と比べて幸福だと感じたり、あるいは不幸だと感じたりする瞬間を通り過ぎる。例えば、失恋して、あるいは仕事を失って、不治の病に襲われて、不測の不運に巻き込まれて立ちすくんでしまう瞬間がある。

残念ながら、どんな社会でもメンバー全員が生まれてから死ぬまで幸福であるというのは理想であって、現実にはそんな社会は存在しない。

そして、この40代の女性、もう新たな出会いもなく、息子と二人暮らしの人生、息子がやがて自分の家庭を築く時には一人取り残されて淋しい余生を送ると落ち込んでしまっている彼女に一体何が言えるのか真剣に考える。

同情でもなく、ありきたりな慰めでもなく、ひとつだけどうしても言ってあげたいことは、「人生はそんなに簡単に完結したりしない。」ということ。

典型とか、コンベンショナルな概念は人間の人生を一般化することには長けていても、個々の人生の数奇なめぐり合わせまで一般化することはできない。

この女性は4年前まで一生結婚はしないと思っていたにも関わらず、しかも絶対に子供はつくらないと周りの友人達に宣言していたにも関わらず、2年前に結婚して息子が生まれた。もし4年前に彼女に対して、2年後にあなたは結婚して子供ができると言ったら、「はあー?」と答えていただろう。しかし実際には、2年前の幸福の絶頂時に2年後あなたは未亡人になると告げたら、信じるはずがなかっただろう彼女が、まぎれもなくここにいる

つまり、人は不幸の瞬間にはなぜか、過ぎてしまった、そしてやがてまたやってくるかもしれない新たな幸福の瞬間から目をそむけてしまい、正常なマインドが機能しなくなってしまう。

彼女にこの先幸福が約束されているなんて決して言えない。でも、年齢が幾つになっても、どんなに周りが幸せに見えても、どんなに周りが羨ましく思えても、年齢が人生を完結したりはしないことを本当に理解して生きてほしい。

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Lance Edward Armstrong is Hero or Villain? -ドーピングテストの本音と建前


2000年以来、自転車プロロードレース、Tour de Franceで7回優勝しているLance Edward Armstrong、肺と脳に転移した睾丸癌を克服し、人間の命の強さを世界に知らしめた彼は、1997年に癌患者を支援するLivestrongとういるチャリティ-財団さえ設立して、世界的な慈善家としても知られていた。

その一方でこの10年ぐらいの間ドーピングの疑惑をかけられ、彼自身そのことをずっと否定し続けてきた。

ところが、昨年10月United States Anti-Doping Agencyから提出されたレポートが彼のドーピング行為を立証したことで、過去のタイトルが全て剥奪され、オリンピック競技会からも永久追放された。同時に、Livestrongの議長としての地位も辞任に追いやられた。

そして今月Oprah Winfreyとのインタビューで公にドーピング行為があったことを認めた。今回のインタビューの中で、Lance Edward Armstrongは、1990年代半ばにドーピングを始め、2005年に7つ目のタイトルを手にするまで続いていたこと明らかにしている。また、United States Anti-Doping Agencyのレポート内容を否定して、当時はただ他のチームメートがやっていたことを自分もやったのだというコメントをしている。

彼の意向としては公式に陳謝して、周りの人々から信用を取り戻したいというものだが、メディアから報道される情報を耳にするかぎり、よくも今さらそんなことが言えたものだというコメントがネットを通して世界中に広がっているように感じる。

そして彼の嘘が引き起こした波及効果は、彼が成し遂げたと思われた過去の栄光を全て消し去るだけでなく、彼の残された人生を徐々に破滅に追い込んで行くにちがいない。

しかしながら、なぜLance Edward Armstrongだけがこんな目にあっているのか、不思議に思っている人も少なくないはずだ。

例えば、オリンピック競技でもドーピングで失格になる選手の話は決して珍しくない。そして、その同じ競技のなかで、失格にならなかった選手が本当にドーピングをしていなかったと言い切れる人がいるだろうか。

まして、スポーツ界には誰が見ても薬を使っているとしか思えない短期的に肉体的変貌をとげる選手はごまんといる。勿論、彼らもドーピングテストをパスしている。

ニュースの中に、Lance Edward Armstrongは1990年代半ばから2005年に7つ目のタイトルを手にするまで、他の参加選手と同様にドーピングのテストを受けていて、陽性の結果は一度も出ていなかったにもかかわらず、United States Anti-Doping Agencyは、「だからと言ってドーピングをしていなかったとは言えない。」とコメントしたという報道があった。

それでは過去にドーピングテストを受けてパスした勝者は誰ひとりとして、ドーピングしていなかったという証明をしていないことになる。

納得いかない内容の報道が続く。

世界一を争う競技に参加するトップ選手のマインドは、近所に住んでいる何かと勝気な男の子が町内会の野球大会で闘争心をむき出しにするのとはちょっとわけが違う。

どんな手段に訴えても世界一の座に辿りつこうとする闘争心は、おそらく一般人の想像をはるかに超えるレベルにあるにちがいない。

外目には才能に恵まれたアスリートとして簡単に理解されてしまうが、世界一に手の届く距離に一旦近づいたトップ選手達の精神状態を世間は本当に理解しているのだろうか。

自ら尋常ではない競争社会をつくりだしておきながら、トップ選手が勝ちたいと思うあまり薬の誘惑に負けてしまう弱さを世間は本当に責めることができるのだろうか。

まして、ドーピングが横行していることに気づいていながら、知らないふりをする人達がどうしてここで責められるべき対象になっていないのか。

ここでLance Edward Armstrongの嘘を正当化しようとする意図は毛頭ない。

ただ、彼のついた嘘がまるでこの事件の中心であるかのようにメディアが脚色する姿勢に対しては違和感を覚える。

メディアがこの事件でフォーカスすべき点は、彼の嘘が生み出す波及効果ではないはずだ。問題なのは、トップ選手のドーピングを感知できないドーピングテストを実施している機関と、そして、そのドーピングテストを感知されずにパスさせようとするドーピングエキスパートとの癒着。

本当に現行のドーピングテストは俗に言うループホールだらけなのか。それともループホールを見つけ出そうとするドーピングエキスパートが絶え間なく一歩先に出ているだけなのか。それともこの二つは後ろでつながっているのか。

真相がどうであれ、残念ながらこの問題はスポーツ界全体が故意に解決しないようにしているとしか思えない。

同時に、どうしても腑に落ちない点はドーピングテストで一度も失格になっていなかったLance Edward Armstrongをなぜそこまで疑う必要があったのか。

United States Anti-Doping Agency のコメントの通り、Armstrongが初めてTour de Franceのタイトルを手にした1999年の時点でドーピングテストが彼のドーピング行為を感知できなかったのだとしても、彼のドーピング行為に気づいていた周りの人間の多くは、明らかにこれまで見て見ぬふりをしていたことになる。

メディアはなぜかLance Edward Armstrongがやり玉に挙げられた真相を明らかにしていない。ドーピングテストで陽性が出なかった選手をあそこまで追及しなければならなかった本当の理由は何なのか?

もしかしたらスポーツ界の陰の大御所の逆鱗に触れるような何かをArmstrongがしてしまった事実が背後に隠れているのかもしれない。そして、そのつけが普通なら見過ごされるはずのドーピング行為に目をつけられてたたかれてしまったというシナリオなら少しは納得もいく事件になるような気がしてならない。

いずれにしても、今回の事件に関する限り、「ドーピングをしてはいけない。」という建前と「ドーピングが横行しているが、ドーピングテストで陽性が出なければ許されてしまう。」という本音がある中で、睾丸癌が肺と脳に転移して50%の生存率から生き残ったLance Edward Armstrongが想像を絶する努力のもとに成し遂げた栄光を全て取り上げてしまうという判断が本当に正しいと言えるのだろうか。

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What is wrong with this picture? -本当にデモを起こすべきなのは一体誰なのか?


日本とは異なり、資格試験のほとんどが難しいとは思えないカナダ。実際に仕事の業務を遂行するにはそれほど物事を暗記していなくても、その都度調べて正確な情報に基づいた判断ができればいいという、より実践的アプローチがとられている北米のシステム。日本では到底考えられないオープンブックが資格試験に許されるのもまさにその違いを感じさせられる。

しかしながら、このシステムが生み出す有資格に勘違いするそれほど優秀とは思えない人材が、いや、おそらく相当手に負えないレベルの人達が様々な業界でサービスを提供しているのは否めない。

プライベートセクターでは、基本的に利益が出なければビジネスが維持できないという原理がいやおうなく働く手前、無能な人達は自然淘汰されていく。

ところが、この自然淘汰がなかなか起こりにくくなってしまっているのが、こんなプレッシャーもなくのんきに暮らしているカナダの公務員、国民の税金を給料としてもらっている人達。国がつぶれない限りほぼ安定した人生が約束される職業。カナダでは日本のように公務員試験があるわけでもなく、ほとんどコネで公務員が採用されていて誰も文句を言わない。文句を言っているのは何故かいつも優雅な人生をのほほんと送っている公務員の人達自身。

そして最近オンタリオ州政府が先生の給料を2年間フリーズして、有給休暇とは別に有給で病欠できる日数、年間20日間を10日間に減らし、彼らのストを起こす権利を制限するBill 115を法制化したというのだ。

これに対して先生方が激怒。Queen’s Parkでデモ行進、ストをおこして子供達は混乱状態。
1月11日 (金) に予定されていたオンタリオ州の小学校のストが早朝の6時ぐらいにキャンセルされたというニュースを耳にした。勿論、これではスクールバスも動かず、半数近くの生徒が欠席。

一体どっちの行動が正当化されるべきなのだろうか?

オンタリオ州のプライベートセクターの平均年収は現在約47,000ドル(420万円)。この4年ぐらいの間にたった2.5%ぐらいしか上がっていないという。

オンタリオ州の先生方の給与は7年勤務している人の平均年収が約72,000ドル(640万円)を下らないという。そして、オンタリオ州の過半数の先生の年収は約95,000ドル(850万円)。ちなみにBC州は81,000ドルで、ケベック州は72,000ドル。勿論、これは失業保険、カナダペンションや退職してから裕福に暮らすための先生ためのペンションと言うのがあって、これをすべて含めるとオンタリオ州では先生一人当たりに年間約110,000ドルが税金で賄われているということになる。そしてなんと先生方はお休みもたくさんあって、合計で学校に行くのがなんと年間195日という話を聞かされた。

ええ?

2年間のフリーズと有給で病欠できる日数が20日間から10日間に減らされたことに本当に激怒すべきなのは一体誰なのか。

For God’s sake, just shut up and work!と内心叫んでいるのは自分だけではないはずだ。

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No names of New Delhi rapists or victims? -迷走し続ける遅れたマインド


この1カ月、ほぼ毎日のように報道されるショッキングなニュースに不快感を覚える。

アメリカの乱射事件のショックからまだ抜け出せない人達が多い中、このニュースと争うかのように12月16日インドのNew Delhiの郊外を走るバスの中で起きた集団強姦事件。このニュースを読みながら嘔吐感に襲われる。

残虐な集団強姦事件とはいえ、この種の事件はインドでは珍しくない。インドの強姦事件と言えば、自分が知っているだけでも2年ぐらい前に14歳の少女が父親も含めた100人に強姦された事件や、去年の9月にも19歳の女の子が7人の男性にレイプされた後に焼身自殺、父親も殺虫剤を飲んで自殺したというニュースがBBCを通して流れていたのを思い出す。

この種の事件はおそらく、インドに限らず人口が膨らんでリーダーシップが欠如した他の多くの発展途上国でも日常茶飯事的に起きているにちがいない。ただそのニュースが表面化するか否かの違いに過ぎない。

インド社会では強姦された女性が被害者であるにも関わらず、忌み嫌われ村八分にされるという話を耳にしたことがある。また、インドでは電車の中で起こる強姦事件が珍しくないという。そして強姦事件を見ている周りの人間が被害にあっている女性を誰も助けたりはしないというのだ。

それにしてもインドのメディアの報道の仕方には唖然とさせられる。いや、インドの国民性や文化にも何か不気味なものを感じる。

今回の事件でも犠牲者の女性(23歳)の名前も、加害者6名の名前も報道しないインドのメディア。女性が残虐に暴行された事実をここまで表面的にしか報道しないメディアが今の情報化社会にまだ存在していたのか。

全く事件の真相を見せない報道。不思議なのは事件後何日たっても本当にそれ以上報道されないことだ。報道されているのはデモが起こっている話、加害者に対する裁判の話、インドの強姦事件がもう長い間日常茶飯事的になっていること。しかし、それが何故起きているかについては全く触れようともしない。まるで隠しようがない事実だけを伝えるかのように、一方的に、疑問が渦巻く報道を平気で続けるインドのメディア。

事件後犠牲者は腸の摘出手術を受けたという。

腸を摘出?

脳にもかなりの損傷があったという。

脳の損傷?

シンガポールの病院に移されたが、事件から13日たった12月29日治療中に死亡したという。

一体どうなっているのか。

そして女性の地位を問題にするデモが国中に広がる。

強姦事件が日常茶飯事的に起こっているのにもかかわらず、何故今デモが始まるのか。

この女性の相手の男性も暴行を受けているのに、何故女性の地位や保護の問題になるのか?

犠牲者は暴行が原因で死亡しているのだから、暴行殺人として、女性の地位ではなく、国家治安の悪さが問題になってデモが始まるべきではないのか。

バスの運転手がこの事件に関与していたと報道されている。バスの運転手がバスの中で起こっている集団レイプを止めずに加担してしまうバス?

一体どんなバスなのか?

今回の事件が表面化したのは、集団強姦事件が結果として暴行殺人事件になったことが世論を煽ったに違いない。ところが、殺人なのにもかかわらず、インド国民は強姦事件にすり替えて女性の保護を訴えようとする。

まるでこの犠牲の者の死を利用するかのようにデモ行進がさらに広がった。

これが既に病めるインドを象徴しているように感じる。

必死にデモ行進して女性の保護を訴えても、政府に一体何ができるというのか。

政府が法律を変えたとして、殺人に至る集団強姦事件のケースが減るとしても、強姦事件自体の数は減ったりしないはずだ。

なぜなら、社会のインフラが整備されていない発展途上国の無法地帯の死角はそんな簡単に消えたりはしない。一度死角に入った男女の関係は理性を失った強いものが弱いものを餌食にする世界。今のインドに本当にこの問題を解決できるすべがあるというのか。

インドの急成長の陰に潜む暗い影。超保守的な文化や国民性に起因しているとしか思えない遅れた価値観やマインドは、問題点を指摘することには敏感でもそれを解決する場面では自らの非を認めずに政府に矛先を向けてしまう。

正直今回の事件は発展途上国が未だに発展途上であり続ける所以を露呈していると言わざるを得ない。

よく言えば、どんなレベルにしてもこの種の事件を表面化させたことにインド社会の変革への兆しが見えていると言うべきなのかもしれない。

今回の事件にはアメリカの乱射事件に見られるような精神的に病んだ加害者の姿は見られない。

あるのはおそらく後悔も反省もしていない残虐な動物レベルのマインドしか持たない加害者。

そしてその動物レベルのマインドをつくりだしているのは、自分たち自身の中に深く根づいた遅れた価値観であることを認識しない人々のデモ行進。

インドの社会状況を見た時に、強姦について責められるべきなのはインド社会がつくりだした遅れた社会通念。問題は、電車の中で強姦されている現場にいながら見て見ぬふりをする国民性、犠牲者を焼身自殺にまで追い込み、犠牲者の名前をだしたら、その家族が忌み嫌われ自殺せざるを得ないような社会をつくりだしたインドの道徳教育にあるはずだ。

どんなに社会が進歩しても、強いものが弱いものを、有利な立場にある者が不利な立場にある者を餌食にしようとする人間の本能的行為を100%排除することはできない。

犯罪件数を減らす努力としてインドの人達が本当にしなければならないことは、子育てのプロセスで親があるいは周りの人間が子供に植えつけている価値観の原点に戻って、男女平等や人間の命の尊さについて改めてしっかり教育し直すこと。

そして、その努力と並行して、インド文化の根底にある強姦の犠牲者や犠牲者の家族を自殺に追い込むという体質を打破するための対策を早急に講じるべきではないのか。

それができなければ、国中でいくらデモ行進をして政府に女性の保護を訴えても、次の犠牲者の死体は今日もまたどこかでニュースにすらならずに葬られてしまうに違いない。

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