Do we really need to fix gender inequality? -女性が願う平等な社会とは?

 
最近のニューヨークタイムズの記事で社会における男女の地位に関する記事が目についた。女性の地位が向上したことを伝える本が数多く出版されているのにもかかわらず、アメリカの長者番付にはほとんど女性の名前があがってこない。アメリカ議会を見ても女性議員が占める割合が未だに17%と低い数字が報告されているという。

そして今から50年前のアメリカ社会は高卒の男性の方が大卒の女性よりもいい仕事、いい給料を手に入れていた時代。日本で言うところの亭主関白状態で夫が家族の中であらゆる決定権を持っていたことが書かれてあった。そして、その決定権の中には妻に対してセックスを強いることさえ許されていたという内容が含まれていた。

このニュースを読んで一瞬「これは別に女性の地位の向上の話ではなく、男女平等の話でもない。50年かけて、アメリカの男性が自らの犯した過ちに気付いて悔い改めただけの話ではないのか。」と思う。

アメリカ社会における女性の地位の向上は70年代、80年代に急速な進展を遂げた後、90年代後半にはその勢いを弱め今日に至っているという。

女性の地位の向上、あるいは男女平等という概念に関しては、一般的に語られている視点がそもそも少しずれている気がしてならない。

性別による差別の問題は人種による差別とは全く違う。女性はマイノリティーではない。

例えば、オリンピックでは年齢や人種による競技のクラス分けはないが、男女が競い合うことはない。本当に平等を考えるのなら当然性別による差別があってはいけないはずなのに、そんなことを女性だけはなく誰も求めたりしない。つまり、少なくとも肉体的な能力レベルの男女間の違いは社会全体が認めている。

この誰もが認める男女間の違いをベースにして、一体何が男女平等に当たるのかを確定することはそんなに容易なことではないはずだ。

そして、性別による差別と、能力やパフォーマンスをベースにした判断には大きな違いがあるのも否めない。

例えば、企業がほぼ同じ能力をもつ男性と女性のどちらか一方を管理職に就かせようとする時に、やがては産休で数カ月間いなくなってしまうかもしれない女性より、同等の能力を持つ男性を選ぶことが男女平等の概念に反することだと本当に言えるのか。

企業は慈善事業をしているわけではない。利益を上げるために従業員が産休を取って仕事ができなくなることがあらかじめ分かっていて、男女平等という概念に基づいて女性を選択することを強いられていいものなのか。

もしそうなら、それは許された差別によって女性は保護されて、その差別によって男女平等が実現すると言う理論になる。つまり、男女平等は女性を優遇することで成り立つ差別が根底にあるということになる。

これが男女平等の真の姿なのか。

また記事の中でこんなことが書かれていた。男性以上に給料をもらっているのは大都会に住む未婚で子供もいない20代のキャリアウーマン。他方、子供を持つ女性はなかなか雇用されない現実があるという。

これもまたあえてニュースになるようなことなのか。

常識的に考えて現状、政府で働く人たちには当てはまらないのかもしてないが、利益が上がらなければつぶれてしまう私企業の雇用主の立場に立てば、この事実は必然的に生みだされる状況に他ならない。そして、これは男女平等の話ではなく、能力主義、結果主義をベースにした人事選択に過ぎない。

そしてふと思うのが、メディアが伝えるように、女性は本当に社会における地位の向上を求めているのだろうか。

50年前ならともかく、基本的に男女平等が当然だと考えれている現在のアメリカ社会で、どうしてここまで未だに女性の地位の向上が語られるのか。

語られること自体、まるで女性が未だに平等に扱われていないような印象を受ける。

でも本当にそうなのだろうか。

女性が本当に地位の向上を求めているのなら、例えば、なぜもっと女性起業家が生まれてこないのか。女性は別に少数派でない。現時点で既にたくさんの成功を顕示する女性起業数がメディアを飾っていてもおかしくないはずだ。ところが、実際には現在アメリカのFortune トップ1000の企業のCEOの中で女性が占める割合はわずか4%に過ぎない。

既存の男性社会と直接競合することなく、女性の強さを最大限に利用して、例えば、女性が過半数を占める企業をつくりだすことだって不可能ではないはずだ。でも現実にはそんなきざしは見えていない。

物理的なインフラには問題はないはずなのに、社会に根づいている古い意識のインフラが現状に甘んじる女性達を立ち上がらせようとしないのか。

そして、もし未だに女性の多くが心のどこかで「私はやっぱり、男性に守ってもらいたい。」という気持ちを持っているとしたら、女性の地位の向上や男女平等の概念についての議論自体、根本からそのベースを失ってしまうことになりかねない。

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