Handguns won’t kill you! – トロントの安全性にイエローカード警告?

 
トロントは日本ほどではないにしても、極めて安全な街だと自負している。少なくとも今まではそう信じ込んでいた。

今週7月5日(木)THE GLOBE AND MAILでトロントの西側にあるエトビコというエリアで起こった拳銃射殺事件のニュースが目に入ってきた。

この事件の犠牲者、20代と推定されている男性は5日の午前4時頃、ハイウェイ427号線のBurnhamthorpe 出口から東に向かうとすぐにぶつかるMeadowbank RoadとBurnamthorpe Roadの交差点近くで死体で発見された。

警察側からの報告によれば、今年に入って、これで殺人事件の件数が26件、去年のこの時期までに起こった件数と同数に達したという。

このうち拳銃による射殺事件は16件で、去年の14件と比較すると2件増えている。

犠牲者が出なかった乱射事件を含めると事件数は去年の102件から132件まで増えているという。

以前にもまして、よく目に入ってくるようになった 拳銃射殺という文脈での“Shooting” “Shot”という単語に妙な違和感を覚える。

25年前、自分が知っているトロントでは肥満や射殺事件をここまでビジュアルに感じることはなかった。

このエトビコの拳銃射殺事件は先月のイートンセンターとイタリア街での事件を合わせるとこの1カ月足らずの間にもう3件目ということになる。

先月のイートンセンタ-での事件後すぐに拳銃所持の禁止、銃弾所持の禁止をあらためて問題にしようとする声が上がった。相変わらず的外れの世間からの抗議に、警察側は「拳銃は既に連邦法の下で制限された武器として分類されている。カナダでは拳銃の規制はしっかり機能している。拳銃所持の規制をこれ以上厳しくしても、拳銃射殺事件はなくならない。」と訴える。

この見解に関する限り、警察側の状況把握に間違いはない。

拳銃をもって、殺人を企てる人間が法律を守ったりはしない。拳銃を是が非でも欲する人間はどんなに厳格に法律が拳銃所持を規制しようとしても、あらゆる手段に訴えて、入手しようとするに違いない。

メディアの報道によれば、イートンセンターで起こった拳銃射殺事件の犯人は婦女暴行罪で自宅監禁状態のはずだったという。つまり、この事件が起こった原因は、拳銃というよりは、犯罪者を監視している側に非があった可能性があるということだ。

拳銃は人を殺したりしない。拳銃を使って、人が人を傷つけていることを忘れてはいけない。

誰も拳銃を持たなければ、警察が拳銃を所持する必要もないはずだ。

世間の人達の多くは殺人が実行される最終シーンだけに注目して、短絡的な判断で問題を解決しようとする。それが簡単に安心できる方法だと信じているからなのか。勿論、そう思う瞬間だけはホッとできるに違いない。だから、全てを拳銃のせいにする。

どんなんに拳銃所持を連邦法で規制しても、拳銃が入手不可能な社会をつくらない限り、拳銃射殺事件は消えたりしない。

拳銃射殺事件に関して見過ごしがちな点は、原因は拳銃というよりは、人の心の中にあるということだ。満たされない思いが、時に怒りに変わる。ねたみに変わる。そして、殺意が生まれる。

だから、解決方法を求められると、警察も政治家も、そして世間も誰もが黙り込んでしまう。

つまり、人間が自ら武器を発明しておきながら、正当防衛のためと訴えながら、濫用されると武器を責めるのは全く道理に合わない。

社会が成長するとともに、人口が増え、精神的に病んだ人たちの数も同様に増えていく。人の心に殺意が生まれたところに、武器が存在すればそれを止めることができるはずもない。

全てが起きるべくして起こっているのにもかかわらず、まるで自分には関係ないという顔をする社会がある。

残念ながら未だに拳銃を責めようとする人たちに対しては、”You can’t have your cake and eat it, too”と言わざるをえない。

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Dangerous Good Grade Pill ? – 興奮剤、受験戦争、優等生 何故?

 
先月のニューヨークタイムズで偶然、こんな記事を目にした。受験戦争に薬で対処する学生が増えているという話だ。受験戦争に使われている薬はA.D.H.D.(Attention Deficit Hyperactivity Disorder)に悩む子供たちに処方されているAddreallやVyvanseなどのamphetamines。勿論この他にも同様の薬は数多くあるようだが、目的はどんなに疲れていても、集中力、記憶力が一時的に倍増するというもの。

これらの薬は結果がでるから手がつけられない。もっと驚いたことにこの薬はとりわけIvy leagueを目指す裕福な家庭の優秀な子供たちの多くがSATを受ける前にこの薬をのむという。つまり、日本でいう東大を目指す優秀な学生にあたる人達が、厳しい受験戦争を勝ち抜くために使い始めているというのだ。

DEA(The Drug Enforcement Administration)によれば、このamphetaminesはコカインやモルヒネと同じクラス2の統制薬物で、これを友達に売ったりする行為は刑法上の重罪となる。

AmphetamineはA.D.H.Dを持つ子供たちの気を落ち着かせる効果がある。ところが、これをA.D.H.D.を持たない子供がこの薬を摂取すると一時的ではあるもののかなり長時間にわたって集中力と記憶力が倍増される。

匿名でインタビューを受けた男子生徒がこんなことを漏らした。「徹夜で勉強して、そのあと長時間の試験を受けても疲れ知らず。薬が、テストの答えを教えてくれる感じがする。これはまさにアカデミックステロイドっていうところかな。自分が薬を使っていることは周りの人には絶対わからないはず。」

また別の女子生徒が、「Addreallは皆使ってる。この薬のおかげで成績がB からAに上がった。手に入れるのも簡単、セラピストにA.D.H.D.の典型的な症状があるふりをするだけ、すぐ処方箋がもらえちゃう。勿論、友達からいくらでも手に入るけどね。」

将来的に懸念される副作用に関する情報が極めて乏しい中、明白な結果をもたらすこのアカデミックステロイドと言われるamphetaminesのこの使用法は急速にアメリカ全土に広がっているという。

ニュースには案の定、既に薬中毒になってリハビリを受けている子供のインタビューも含まれていた。インタビューを受けた男子学生の話によれば、リハビリを受けている学生は既にかなりの数に達しているという。さらに恐ろしいのはその子供たちのほとんどが自分たちが麻薬中毒でリハビリを受けている自覚が全くないという。いわば、ビタミン剤感覚でAddreallを使っていたという恐ろしい事実が露出している。

副作用や後遺症がほとんど見えていない中で、一番大切な健康を犠牲にしてまで、受験戦争を勝ち抜こうとする子供たちがいる。

教育が本来の目的を逸脱している。他との差別化を図るため、まるでこの犠牲が将来の幸福を約束してくれかのように、教育が選別手段に変わってしまっている。

振り返ると、大学を卒業して、社会に出て初めて人生がスタートしたと感じたのを覚えている。まして、生きていく上で本当に必要だと感じたスキルは学校教育の中では学ぶことのできないことばかりだったような気がする。

人間の闘争本能が生み出した学歴社会の弊害から子供たちの将来を守るために、この薬の使用を禁じるだけでなく合格者に対するドーピング検査を義務付ける必要があると言える。

そして、何よりもこのトレンドがアジアに伝わってこないことを祈らずにはいられない。

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Kids with Gay Parents? – 変貌を続ける家族の形に戸惑う子供達

 
今週末は7月1日カナダデーウイークエンド。3連休になるこの週末、トロントは世界最大と言われるゲイパレードを目当てに訪れる世界各国からの観光客で、いつにない賑わいを見せている。

去年トロントの現市長Rob FordがMuskokaのHuntsvilleにあるコテージで家族と時間を過ごしたいという理由でパレードに姿を見せなかった。このことについてゲイコミュニティをはじめトロント市民の多くが、現市長の優先順位のつけ方について厳しい批判の声をあげた。Rob Fordeの言い分は、カナダデーの週末を家族とコテージで過ごすのは毎年の恒例行事ということで譲歩しかねるとのこと。言うまでもなく今回も同様の理由でパレード参加を見送るという。

トロントの市長がゲイ嫌いというのも変な話だが、まあ目くじらを立てるほどの話でもない。

偶然にも、今週末はフランスのパリでもゲイパレードがあるというニュースがRFIを通して流れてきた。フランスのメディアは5月の大統領選でNicolas Sarkozyを破って大統領に就任したばかりのFrançois Hollande大統領が、公約通り同性愛者の結婚と養子縁組の権利の法制化を来年ぐらいには実現すると報道している。この法制化が実現するとフランスは同性婚を認めるヨーロッパでは8番目、世界では12番目の国になるという。

案の定、フランスのParti chrétien-démocrateの党首Christine Boutinがこの法制化に強く反発を表明。同性愛者の結婚や養子縁組に対するキリスト教信者からの反発は今後も収まる様相を見せない。

今週の初めに何気なく流れてきたこのゲイプライドウィークに関連したニュースで、ちょっと考えされた瞬間があった。同性愛者を両親として持つ5,6歳の子供たちが、学校でトロントのゲイプライドウィークをお祝いするというシーンを見せながら、先生がインタビューでこんなコメントを漏らしていた。「同性愛者を両親として持つ子供達に、両親が共にお母さんだったり、あるいはお父さんだったりすることを周りの友達に隠さなくてもいいことをちゃんと伝えていきたい。」

世界的にも同性愛者の結婚が認められるほど進歩的な国、カナダでは、同性愛者の権利が尊重され、異性愛者同様に代理母出産や養子縁組という手段を使って子供を持とうとする同性愛者のカップルの数が急速に増えている。

公平、平等という見地からは、何の疑問も生まれるはずのないこの現象。同性愛者を両親にもつ子供たちの成長過程にこの現象による後禍がないのだろうか。

子供は大人よりも正直に思ったことを口にしたり、相手の気持ちを察することなく行動したりする。でもそれは周りの大人が無意識のうちに植えつけている価値観に影響されながら、子供が自然体で反応しているにすぎない。

両親が共にお母さんだったり、お父さんだったりすることは、必然的にいじめの原因をつくりだす。いじめはいつも少数派が標的になる。大多数とは違う少数派が犠牲になる。

いじめは通常幼稚園ぐらいから始まっておそらく高校まで続くのだろうか。

人間としてのベースがつくられるはずの思春期を含むこの10年以上にも及ぶ成長過程で、両親の性的嗜好によっていじめに悩まされる可能性があることを明確に認識しながら、それでもなお同性愛者は自分には子供を持つ権利があるという理由だけで、自己の欲求を満たそうとするのか。

ここまではっきり社会が対処できていない問題を認識しながら、それでもなお現行法は公平の論理だけで同性愛者が子供を持つことを無条件に許してしまうのだろうか。

同性婚は当事者同士にのみかかわる身分契約なわけで、第3者がそれによって影響されるわけではない。ところが、子供を持つことについてはどうだろうか。

生物学的に考えても、残念ながら、社会において同性愛者が少数派でなくなる未来がくるだろうか。両親が同性愛者だと言うことで子供がいじめにあわなくても済む将来がやってくるのだろうか。

ここで同性愛者が子供を持とうとする気持ちの善し悪しに言及するつもりはない。論理的には決して誤った価値観を訴えているわけではないのはよく理解できる。

しかしながら、これだけ進歩的なトロントでさえ、どんな差別も許されないと分かっていても、心の中では個人レベルの嗜好がある。仮にも、トロント現市長を務めるRob Fordでさえ明確に同性愛者に違和感を持っている。フランスのParti chrétien-démocrateの党首Christine Boutinでさえ同性の結婚や養子縁組に反発しているのという現実がある。

大人の多くが認識できないこの公平、平等、あるいは権利尊重の概念を5,6歳の子供に一体どうやって理解させようというのか。

価値観が著しく多様化する中で、人々は自己の利益を守ろうとして、公平、平等、権利尊重を唱道する。ところが、その判断のプロセスで、客観的、論理的根拠に頼ろうとするあまり、その結論が、個人レベルの嗜好を操作できないことを見落としてしまう。

そしてその後禍がしばしば過小評価されがちな現実に人々は気がつきもしない。

ここで同性愛者が子供を欲する思いを否定する意図は全くない。

ただ自己の欲求を満たす行為が、正当かつ合法であっても、第3者に将来的に長期間に渡って精神的苦痛を引き起こす可能性がある場合、かつ社会がほぼ永久的にその状況を打開できない事実が存在する場合には、現実的判断に基づいてその後禍を回避する選択をすることが少数派に課せられた義務ではないのか。

そして、もし同性愛者がそれを不公平と呼んだとしても、子供の幸福を一番とする社会にはその問いに答えるすべが見つからない。

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NY Bus Monitor Karen Klein – 言語虐待を受けた老婆の慰謝料とは?

 
今週New York州のMonroe CountyにあるGreeceという町でスクールバスの誘導係を務めるKaren Klein(68歳)が、バスの中で13歳の中学生4人から言語虐待を受けるというニュースを耳にした。そして、その様子を撮影した約10分間のビデオがYouTubeやFacebookにアップロードされ、180万回にも及ぶアクセスがあったと報道された。

その視聴者の一人、自らいじめを経験しているというカナダのトロントに住むMax SidorovがKaren Kleinに休暇をとって心の傷を癒してほしいとIndieGoGo.comを使って募金活動を開始したという。現時点で既に募金額が60万ドル(約5000万円)を超え、Max Sidorovさんはこのお金で彼女もリタイヤしてほしいというコメントしている。

一方で学校側は、いじめに関与した生徒4人を厳しく処罰すると発表している。

さらに今回言語虐待に加わった生徒たちは、未成年者であるにもかかわらず、氏名や連絡先の情報がインターネット上に公開されてしまっているという。ビデオを視聴した人達からの批判の声はなりやまず、加害者である生徒の1人には700件にも及ぶ脅迫電話があったと報道された。

そして、まもなく、いじめに関与した生徒の親が謝罪、いじめに関与した子供達自身が謝罪、いじめを受けたKaren Kleinさんはこの子供たちを起訴つもりはないという。そして、募金はさらに増え続け、ところがなぜか、Torontoに住んでいると報告されているMax Sidorovさんからはその後コメントはもらえないという。

美談と言えば、そうなんだと話が終わってしまいそうな気がする。いや終わってほしいとも思う。

ただこの美談を聞いて、思い出さずにはいられない事件は少なくない。

Tania Headという女性。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で、最愛の婚約者を失い、崩壊した世界貿易センターの南タワーから奇跡的に救助された19人の生存者の一人として報道された話。あの事件の後、彼女は世界貿易センターネットワークの自助グループのプレジデントを務めるほど、周りの政治家、メディア、他の生存者、あの事件で家族を失った人たち全員が彼女の作り話を信じていた。そして、事件から7年後、事件当時彼女はスペインのビジネススクールで講義を受けていたという事実が暴露された。この事件に関する限り、Tania Headは特に法的に罰せられるべき行為はしていないという。

つい最近では、2年前、頭を剃って白血病を装い、結婚指、2千ドル相当の花などの寄付を集めMichael O’Connellと盛大な結婚式を挙げて結ばれたJessica Vega(当時25歳)の話。結婚して2年後、このカップルは離婚した。Jessica Vegaの白血病が治癒したのではなく、もともと白血病ではなかったことが判明した。約2か月前に彼女は重窃盗と詐欺の罪で起訴された。夫のMichael O’Connellは妻の白血病を疑うことはなかったという。

そして疑問が次々生まれてくる。

肥満で充満している北米で肥満の老人が珍しいだろうか。そんなことに子供が気を留めるだろうか。

インタビューの中でKaren Kleinはバスの誘導係として20年も働いているがこんなことは一度も経験しことがないとはっきり言っていた。20年間1度もなかったことがこんなにタイミングよく起こってビデオに撮られて募金が始まった。

このビデオを撮ったのはこのいじめグループのメンバーのはずだ。なぜなら他の子供達は怖くてKarenを助けることさえできなかったのだから、どうしてあのアングルでビデオを撮ることができるのか。勿論、このメンバーがあらかじめビデオを撮るように指示したのならば別だが。

まして、いくら13歳と言っても、本当にあの子供達は、彼ら自身が加害者である言語虐待シーンをビデオに撮られてYou Tubeにアップロードされることによる後禍を認識していなかったのか。

大体、言語虐待を受けている老人に必要なのは、募金を募って休暇をプレゼントすることなのか。

なぜIndieGoGo.com使っての募金の話がこんなに即座に出てきたのか。

トロントに住んでいると報道されているこのMax Sidorovという人は一体どんな人物なのか。

IndieGoGo.comのサイトは本当に機能しているのか?

疑問に包まれたまま美談が美談のまま数日で忘れられてしまう。

まるで何もなかったように老婆に対する言語虐待事件が、こんなに綺麗に、こんなにスムーズに、こんなに美談に締めくくられてしまう。

一瞬、Tania Headの話もJessica Vegaの話も最初はまさしくこの美談だったの思い出す。

今も増え続けるIndieGoGo.com募金の行方を語る人もいない。

インターネットメディアサイトのトップには、もうKaren Kleinの記事はどこにも見当たらない。

信じられない詐欺行為が横行するインターネット時代にあって、美談と聞いて、条件反射的に何か底知れない恐ろしさを感じる人も少なくないはずだ。

まさかとは思いつつ、これがもし'プロの詐欺グループによる仕組まれた完全犯罪だったとしたら'と思うのは自分だけなのか。

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Holman faces fraud and theft – 真相がかすむ移民コンサルタント詐欺事件

 
6月14日(木)にカルガリーで起こったプロボノ移民コンサルタントによる詐欺行為についてのニュースが流れた。被害者が日本人だと聞いてちょっと驚きながらも、記事の詳細を読んだ。

学生ビザで娘さんを連れて3年前にカナダにやってきた55歳の日本人女性が、40歳のカナダプロボノ移民コンサルタント、Melissa Holmanに、カナダ永住権もなく、市民権もないのに、家を購入したり、投資をすることはできない、政府に知られたら、不動産の没収だけでなく国外追放されると言われて、購入した不動産2軒と現金合わせて約$2.4ミリオンをMelisa Holmanに所有権の移転処理を行っていたと言う内容だった。

一瞬、「$2.4ミリオン(日本円で約2億円)にも及ぶアセットをそんなに簡単に移民コンサルタントといっても、あかの他人に所有権を移したりするだろうか。」という疑問が浮かぶ。

警察側からのレポートによれば、不動産の所有権移転は去年の7月に行われたという。既に約1年が経っている。この被害者は、もう3年カナダに住んでいるわけで、全くカナダについて知らないわけではないはずだ。一体この被害者はこれが詐欺行為であることにいつどうやって気がつき始めたのか。それにしても$2.4ミリオンを持ってなぜカナダに来ていたのか?

この事件の裏側に隠れている情報がありすぎるにもかかわらず、メディアが“悪徳プロボノ移民コンサルタントの餌食になった日本人移民”という一方的な脚色をしているために、本当の事件の真相が見えてこない気がした。

その上、メディアはこの”Not for profit”を前面に打ち出したコンサルタントのホームページには悪徳弁護士に対する批判や詐欺行為を絶滅しようとするスローガンさえ書かれてあったことに、幻滅しているという意味のコメントを加えていた。

それは違うと思った。

ネット上には真偽が確認できない情報は氾濫している。

インターネットのお陰で、必要な情報に瞬時にアクセスできる半面、残念ながらその情報自体の信憑性をはかる方法がほとんど存在しない。誤った情報、偽りの情報をネット上に掲載することは倫理に反する行為であっても、その行為を規制することは現状不可能なわけで、情報の真偽を決めるのはそれを読む各個人の判断にかかってくる。

大体、悪徳弁護士、悪徳移民コンサルタントが自分は悪徳だとホームページに書くだろうか。

それは例えば、信じられないほどまずい料理を出すレストランが自分のホームページで、「うちには毎日たくさんお客様が来られます。うちのレストランを試した人は皆うちのレストランをおいしいと言ってくれています。」と書いてあるのを読んで誰が信じると言うのか。

あるいは、
「ここのレストランはおいしいから絶対におススメです。皆さんも是非食べに行ってください。」などと、真偽が確認不可能な情報を、本人のIDも顔写真もないレビューを使って自分のレストランを宣伝するのを鵜呑みにするだろうか。

実際、ネットでおいしいと宣伝されているレストランに行ってひどい経験をした人は少なくないはずだ。

インターネット、ツイッター、フェースブック、今すぐに参照したい情報に瞬時にアクセスできる時代の中にあって、皮肉にもその情報の餌食になってしまう人達のニュースが報道される。

重要なのは、サーチするする手段にかかわらず、必要情報をサーチする過程で、確認不可能なマーケティング文句に惑わされないことだ。

確かに本当に信頼できる移民専門家を探すのは決して簡単なことではないと思う。

ただ少なくともメディアを通して参照した情報の真偽を、他人に頼るのではなく自分自身で確認する努力を怠ってはいけない気がする。

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His Holiness by Gianluigi Nuzzi – ローマ教皇庁に響く堕落のつぶやき

 
宗教という言葉を聞いてすぐに思い出すのが高校の時に受けた聖書を使った宗教の授業。正直、カトリック系の私立の受験高校だったこともあって、子供ながらに「なんでまたこんな大学入試とは全く関係ないことをここまでやるのか。」と内心反発を感じたのを思い出す。

それから、初めて海外に留学する時に、或る人が外国に行ったら、宗教の話だけは避けた方がいいと言っていたのを思い出す。無神論者の自分にとってそれは確かに尤もな話だった。相手の目に一体どんな世界が映っているのかも分からず 、まるで子供に「サンタクロースなんていない。」と言うみたいに、「神様なんていない。」とは本当は言いたくても、言ってはいけないと思った。

実際に北米に暮らして、神を盲目的に信じて祈る人々の姿に、単に洗脳という言葉では説明しきれない何か恐ろしいものを感じたのを覚えている。

学生時代、歴史を学ぶ中で、宗教が語られた時、宗教は人間がどうやっても克服できない困難にぶつかって、助けを求められる人あるいは物あるいは手段がなくなってしまった時に、心の痛みを癒し、精神のバランスを保つために、神という架空の救世主を創り出したのだと勝手に理解していた。

今年の1月にイタリアのジャーナリストGianluigi Nuzziがローマ教皇庁( バチカン) のNo.2 大司教であるMonsignor Carlo Maria Viganoからローマ教皇に書かれた手紙の内容を報道した。教皇庁の絡む汚職事件を暴露したことによる異動の撤回を懇願する内容だったという。実際にMonsignor Carlo Maria Viganoはバチカンの現駐米大使になっている。

そして、5月下旬、Gianluigi NuzziがHis Holinessを出版し、さらに今まで公にされなかったローマ教皇庁内部の汚職の数々を暴露した。この著書の中では、とりわけ、バチカンNO.2の枢機卿、Tarcisio Bertoneの失脚を狙った、多くの不正事件の詳細が暴露されているという。

5月23日にはローマ教皇の執事Paolo Gabrieleが、ローマ教皇庁内部の機密情報を外部に漏洩した疑いで逮捕された。バチカン内の自宅宿舎にあってはいけないローマ教皇庁内部の極秘情報を含んだ書類が見つかったというもの。

この他にも、今年の3月19日(月)、バチカン銀行がJPモルガン銀行のイタリア支店に持っていた口座が解約された。原因は宗教団体がもつ免税特権を濫用したマネーロンダリングと詐欺の疑い。過去18か月の間に15億ユーロ(日本円にして1500億円)がこの口座を通して様々な国にあるバチカン銀行の口座に流れたと報告されている。

ローマ教皇庁のスキャンダルは、未成年に対する性的虐待をはじめ、公共事業入札価格の操作に関する疑惑、免税特権を利用したマネーロンダリング、イタリア政界との癒着、教皇庁内部の権力闘争に伴う機密情報の漏洩にいたるまで、数多くの不正事件が今までにも表面化している。とりわけ1月の文書流出事件では、メディアがVATILEAKSという造語まで創り出した。

つい最近、メディアを通して流れてきたニュースの中で、教皇の執事の許されざる漏洩行為、あるいはGianluigi Nuzziの出版行為を刑法上責められるべき罪としてバチカン側が必死に叱責する姿が哀れに見えた。

なぜなら、問題は、誰が漏洩したかでも、何を漏洩したかでもなく、漏洩された情報の真偽にあるはずだ。もし情報が真実であれば、漏洩者の意図が正当化され、法的に責められるべきなのは神に仕える身であるはずのローマ教皇庁側。

ここで宗教を否定するつもりも、まして、神の存在について議論するつもりも毛頭ない。

しかしながら、宗教だからと言って、免税権等の特権が与えられても、免罪符は与えられていないはずだ。

性的虐待、汚職、マネーロンダリング、政界癒着、権力闘争、機密情報の漏洩、この連想ゲームの答えがローマ教皇庁だとしたら、憲法で保障されている信仰の自由に下に、この宗教団体が本当に神に仕えていると言えるのだろうか。

一瞬、本当に神に仕えているのは、逮捕されたローマ教皇の執事Paolo GabrieleやHis Holinessを出版したイタリアのジャーナリストGianluigi Nuzziではないのかという思いに駆られる。

世界的にカトリック教会を象徴するローマ教皇庁内部のスキャンダルがここまで公にされても、人々はまだ永遠に沈黙を守り続ける神の存在を信じて祈り続ける。

この尋常ではない宗教の洗脳力の強さに畏怖の念を抱くのは自分だけなのか。

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Warrantless Wiretapping – 本当に盗聴されているのは一体誰なのか?

 
5月21日(月)、“Warrantless Wiretapping Program”に関してACLU(American Civil Liberties Union)と米連邦政府との間で争われている係争中の訴訟が今年の秋ぐらいにアメリカ最高裁に持ち込まれるというニュースが流れた。

歴史を振り返ると、多くの人が争うことの醜さを世の中に伝道しようとしても、なぜか争いが絶えることはない。確かに、社会をできるだけ平和に近づけるために、複数の利益が衝突し争いが起こるのは避けては通れないプロセスなのかもしれない。

この”Warrantless Wiretapping Program”というのは、”アメリカから国外に向けての電話あるいは電子メールによる通信、あるいは国外からアメリカに向けての同様の通信について、捜査令状なしで盗聴行為ができる権利を情報機関に与える” という法案だった。2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ直後、テロ防止を目的にブッシュ大統領が提案し、2008年に修正案が出され、議会の批准を受けて法制化が実現した。そしてその約一時間後に、ACLU(American Civil Liberties Union)がこの法制化に対する異議申し立ての訴訟を起こした。

この訴訟は、ニューヨークの連邦判事が1度ACLU側の申し立てを却下し、その後ニューヨークの第2巡回控訴裁判所がそれを翻して現在に至っている。

次の最高裁での争点は、この捜査令状なしで盗聴行為が許されてしまう法律の違憲性を問うのではなく、原告側に訴訟を起こす権利自体があるか否かについて争われるという。

ビデオの中で、人権活動家やジャーナリストは、“彼らがインタビューする相手は機密保持が保障されなければ真実を語ってはくれない。この法律は簡単に濫用され、罪もない人々のプライバシーが侵害される”と主張する。

しかしながら、アメリカにとって一番大事なのは国民の安全を確保することなのか、それとも国民のプライバシーを保護することなのか、それとも世界で自由を束縛されて救済を待っている人たちに救いの手を差しのべることなのか。

ふと、あの2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以来、空港でのセキュリティーチェックが強化され、持ち込む荷物だけでなく、コートを脱いで、ベルトをはずして、靴まで脱がされ始めたことを思い出す。皆、テロ防止、人の命には代えられないと我慢するようになった。

だから、人命を救うためなら、プライバシーの侵害もある程度は許されるのだろうと、ブッシュ大統領の提案が認められた理由を理解する。ブッシュ大統領の意図はあくまでアメリカ国民の安全を確保することにあったはずだ。

アメリカは他国の問題に干渉して、正義の味方を演じて、人の恨みを買って、報復されて、政府が国民の命を守ろうとすると、また別の国民が自分の仕事が邪魔されていると文句を言う。罪もない人のプライバシーが侵害されていると文句を言う。

それじゃなぜ、空港でのあれだけ失礼なボディーチェックについて誰も文句を言わないのか。

それは誰もが何が一番大切かを認識しているからではないのか。

フランス語では自爆テロをKamikazeという日本語の神風特攻隊からきた言葉を使って表現することを思い出す。

自分の命の大切さを顧みようともしないテロリストから国民を守ろうとしている時に、どうして自分の仕事が邪魔されているとか、個人のプライバシーの保護の問題が仮にも最高裁で争われなければならないのか。

大体、何故テロリストがアメリカを狙っているかを、アメリカ連邦政府も、原告側もしっかり認識しているはずだ。アメリカ人として、アメリカが自ら引き起こしたことが原因でテロが起ころうとしている時に、空港であれだけ誰もが失礼なボディーチェックを我慢している時に、なぜ、国民の安全以外の利益を衝突させようとするのか、正直全く理解できない。

まして、こんな争いをこんなに公に話し合うことで一体どれだけ国民の安全が危険にさらされることになるのか、本当にアメリカ政府も、ACLUの人たちも分かっているのだろうか。

ロシアがあるいは中国がこんな形で自分たちのテロ対策について手の内を公に見せるだろうか。

国民の安全を確保するために、相反する利益を計りにかけるアメリカ最高裁。原告側も被告側も、こんな大事なことをあんなに大声で公に叫んで、テロリストが聞いていないとでも思っているのだろうか。

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Bill C-38 Jason Kenny’s prerogative? – カナダ 移民政策の限界

 
カナダの移民省大臣Jason Kennyが前代未聞の決断を発表。2008年以前にスキルワーカークラスで申請済みの未処理ファイル10万ケース(申請者数 : 約28万人に当たる)を全てプロセスしない意向を示した。申請者に対してファイルを送り返して申請費用をリファンドするという。

CBCでこのニュースを読みながら、申請費用をリファンドすれば済む問題ではないと思いながら、一体どんな言い訳をするのかと、記事のすぐ左にあったJason Kennyのインタビュービデオのリンクをクリックした。

政府側の意図は、スキルワーカクラス移民の現状を理由にしている。移民の多くは能力にあった仕事につけていない。移民の失業率はこの30年間に上昇し続けている。ドクターやエンジニアであるはずの人たちがカナダに来て、タクシーの運転手をしているのはおかしい。

現行の移民制度では永住権取得に時間がかかり過ぎている。2014年までに申請者が数カ月のうちに永住権を取得し、また同時に能力にあった仕事が見つかる”Just in time system”を確立することが最終ゴールだという。”Just in time system”がそんなに簡単に実現可能なら、こんな問題は起こらないはずだと思いながらも、ビデオの中でJason Kennyが言及したカナダ移民の現状は、あながち間違っているとも言えないような気がした。

しがしながら、申請者側からすれば、ルールに従って申請して、散々待たされた挙句に、”やっぱり移民できません。” では納得がいかないのも無理はない。今回の政府の決断に対して数人の弁護士グループが既に中国や香港からの申請者を含め集団訴訟を計画しているという。

2002年7月にスキルワーカーのポイント制が導入され、パスマークが75ポイントに設定された。約1年後にパスマークが75から67に下方修正され、2006年9月にSimplified processing を導入。このSimplified processingにより大量に申請書が受け付けられ、これに歯止めをかけるべく、まず大臣の権限強化を法制化した上で、2008年から38の優先職種を導入。その後CAPの導入という経緯をたどり、2008年2月以前のファイルが最もプライオリティーの低いグループとしてこれまで放置されてきた。

外目には一瞬、カナダ移民省が権利を濫用して、弱者を無視した行為に走っているように見える。だから、弁護士も、自由党もここぞとばかりに、口を出す。また始まったと思う。

確かに、2008年以前の申請者を何年も待たせたことついては、移民省の政策に問題があったわけで、責められて当然なのだが、約28万人の移民申請を破棄することについてはどうなのだろうか。

どこの国でも移民政策というのはあくまでビジネスであって、慈善事業ではない。国の利益にならないことを突然やめることは、市場の変化に応じて、一般企業がリストラを行うのと何も変わらないような気がする。

プライオリティーが低く置かれ、列の後ろで待たされていた人たちには、後ろで待たなければならない理由があったはずだ。まして、現在の労働市場における職種ごとの需要と供給の関係が急速に変化していることは誰もが認識しているはずだ。移民しても能力にあった仕事が見つからなければ、カナダにとっても、移民者にとっても決して望ましい状況とは言えない。

カナダの移民制度自体残念ながら未だに試行錯誤を繰り返して進化し続けている。正直、今回のカナダ移民省の失策は俗に言う”Growing Pain”としか言いようがない。ある意味、移民政策の難しさを浮き彫りしたともいえる。

労働市場がハイテク技術革新によって絶え間なくニーズが変化していくにもかかわらず、移民政策がその変化にタイムリーに追いついていけない現実がある。

つまり、その進化の過程で間違いが出てくるのは避けられない。将来日本も移民政策でおそらく同様の問題に直面するのだろう。

ただ今回の決断に関して言えば、2009年の優先職種導入の時点で発表すべきだったような気がしてならない。この点については集団訴訟で移民省側が責められ、何らかの形で申請者に対して賠償することになるのは目に見えている。

しがしながら、カナダが誰を移民させるかを選択できるのと同様に、移民申請者もカナダだけではなく他の先進国を移民先として選択することができるわけで、列の後ろに並んでいた申請者の多くは、こんなこともあろうかと、ちゃんと”プランB”を考えていたはずだ。

もし” プランB” を最初から考えもしなかったとしたら、そんなタイプの人間が、仮に、カナダに移民したとして、本当に能力にあった仕事を見つけることができるのだろうか。

Jason Kennyの言う、統計が語る現状を侮ってはいけないような気する。

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Michael Rafferty & Terri-Lynne McClintic – 許されない危険

 
2008年4月8日(火)、オンタリオ州にあるウッドストックという町に住んでいた8歳の少女、Victoria Tori Staffordが誘拐され行方不明なった。約1年後の2009年7月この少女の腐乱死体がオンタリオ州郊外の人気のない雑木林の中で発見された。検死の結果、この少女は性的虐待を受けた後、極めて残酷な手口で暴行され、死亡に至ったことが明らかになった。

この事件には共犯者が2人、Terri-Lynne McClintic(当時18歳) 麻薬中毒者とMichael Thomas Rafferty(当時28歳)小児性愛者。

2010年4月に行われた裁判では、McClinticのあまりにもショッキングな供述に、その後に予定されていたMichael Thomas Raffertyの裁判が公平に行われない可能性を懸念して、裁判官から報道差し止め命令が発令された。

同年12月に差し止め命令が解かれ、性的虐待に始まり少女が死に至るまでの暴行殺害行為の残虐な詳細が報道された。この8歳の少女は、最初にMichael Thomas Raffertyに性的虐待を受けた後、Terri-Lynne McClinticによってゴミ袋をかぶせられ、何度も蹴りつけられたあげくに、ハンマーで頭部を砕かれ死亡したという。

Terri-Lynne McClinticは、2010年12月自ら有罪を認め、無期懲役を宣告された。最後まで無罪を主張したMichael Thomas Raffertyの最終判決が5月15日(火)に下され、無期懲役が宣告された。この無期懲役については25年間仮釈放が認められないとされ、これはTerri-Lynne McClinticにも適用されている。

当然のことながら、この事件の背景をメディアは恣意的に操作する。例えば、あるメディアがTerri-Lynne McClinticは、子供の時に電子レンジに犬を入れて殺したことがあること、彼女はToriを殺害したことについて、“Toriが子供だった事実に罪悪感はあるが、それ以外は悪くなかった、機会があれば、また同様のことをするだろう”と言っていたと報道する。

他方でまた別のメディアが、Michael Thomas Raffertyがネットで大量の幼児ポルノのビデオファイルや幼児に対する性的虐待を加えているグラフィックをダウンロードしていたにもかかわらず、今回の裁判にはその事実を証拠の一部として持ち込むことが認められなかったことなどを報道する。

各メディアが競って世間の怒りを煽る情報を暴露する。

いみじくも最終判決で裁判官が言い放った”You are a monster!”。残念ながら、Toriはまるで悪い宝くじに当たったごとく、このモンスターの餌食になってしまった。死刑のないカナダでは無期懲役と言っても、25年後彼らにはちゃんと仮釈放というオプションが残されている。

本当にこれでいいのだろうか。

幼児の人格を全く無視した小児性愛者による犯罪は、カナダだけはなく、全世界で後を絶たない。

今回の事件の報道を耳にして、また考えずにはいられないことがある。

まず、小児性愛者であること自体が犯罪ではないはずだ。小児性愛者は先天的に大多数の人とは異なる性的嗜好性を持って生まれてきただけあって、それを故意に選択したわけではない。自ら選択できなかったことを違法とすれば、生まれたこと自体が犯罪になってしまう。

この場合違法性が問われるべきなのは、自分が小児性愛者ということを認識しながら、専門家の助けを求めず幼児に性的虐待を与えてしまう点、あるいは小児性愛者の周りにいる人間、家族や友達が気づいていながら、予見できた悲劇に対する回避策を何も講じなかったことにあるはずだ。

罪を犯してしまった小児性愛者を無期懲役にするか死刑にするかについてはケースバイケースで語られるしかないにしても、今回の場合のように25年後に仮釈放が認められる場合には彼らが出所した後の対応を社会の中で感情的にならず冷静に検討するべきだ。

現行法あるいは、現在の社会では小児性愛者の出所後の対応に大きな問題が潜んでいることに人々の多くが気づいていない。

通常、小児性愛者の出所が報道されると、誰もが思うのが、とにかく自分の近所には来てほしくない、この願いを反映して小児性愛者は幼児、児童が集まる公共の場の半径何メートル以内の距離に近寄ってはいけないなど、行政は様々な形で小児性愛者を人々の目の届かない社会の隅に追いやろうとする。出所する小児性愛者の数が日々増加する中で、社会の隅に消えてしまう彼らをトラックしようとする警察側の作業は更なる困難を強いられる。

ところがこの対応が子供たちにとって一番危険な選択であることにほとんどの人が気づいていない。

そもそも一度小児性愛者だというレッテルを貼られてしまった人間は、いつも子供たちの集まるところにいたら簡単に見つかって逮捕されてしまうことぐらい十分承知しているはずだ。それにもかかわらず、人々は最初から近くには来ないはずの人間に向かって近くに来るなと叫ぶ。

小児性愛者が出所した後に、人権問題を考慮しつつ行政が人々の声を聞き入れてそれを法制化するまでに、一体どれだけの時間とお金と労力がかかるかについて人々は本当に認識しているのか。

まして、この膨大な努力の結果が、人々の小児性愛者に対する嫌悪感を表面的に癒しているに過ぎないことを本当に理解しているのだろうか。

それどころか、実際には子供たちをもっと危険な状況に追いやっていることに気づいていないのではないか。敵がどこにいるか分からないことほど厄介なことはないはずだ。

小児性愛者が専門家の助けを借りて、社会に危害を加えないように生きていこうとする時に、それを全く正当性の欠如した感情ではねのけてしまうことによるつけは、必ず将来新たな悲劇となって回ってくる。

小児性愛者だけでなく、自己管理不能な性的嗜好性によって人を傷つけてしまう人間は、常時目の届くところにおいて犯罪を繰り返さないように監督することが社会に課せられた使命ではないのか。

これが実現できなければ、治癒不能な小児性愛者から本当に子供たちを守る社会をつくることができるとは思えない。

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Gay Marriage? And? – 同性愛者はなぜあそこまで結婚を欲したのか?

 
11月に行われるアメリカ大統領選を前にオバマ現大統領がこれまで曖昧な立場をとってきた同性婚の賛否について、今月9日、過去の見解を翻して支持する意思を表明したことがニュースのトップにあがった。

実情はハリウッドからの政治資金調達が狙いのようだ。そう聞きながら、ふとカナダでも同性間の結婚を認めるか否かでドタバタ劇があった時期を思い出す。今さらアメリカでそんなことが大統領選に影響するのかと不思議に思う。

トロントのダウンタウンを歩いていて、単なる友達ではないのかなと思われる男性2人、あるいは女性2人が手をつないで歩いているのを見かけるのは珍しくない。これを珍しいと思って見ている人がいたら、間違いなく外国人観光客かどこか小さな街から来た田舎の人だということがすぐに分かってしまう。

1970年代にゲイプライドをスローガンに始まったゲイパレードも、正直なんで未だにこんなパレードをやるのだろうと思うことがある。差別されているのならともかく、この街では同性愛者に対する差別なんて存在しない。差別がないところにプライドを叫ぶ意味が本当にあるのか。

勿論、このパレードには約百万人が集まると言われ、世界各国からのこのパレードを見るために訪れる観光客がトロントに与える経済効果は無視できない。実際、同性愛者のカップルは大半が子供がいないせいもあって、俗に言うDINKS(Double Income, No Kids)に含まれる彼らは、自由に使えるお金が比較的多いことから、ビジネスでも様々な形でターゲットにされている。

カナダで同性愛者の権利が尊重されているのは世界的にも知られていて、同性愛者の結婚が認められていることはまさにそれを象徴していると言えるのだろう。カナダのファミリークラスの移民申請資格の中に、同性愛者のカップルが明確に含まれているのも差別を許さないカナダらしさが出ている。

勿論、同性愛者に限らず、差別なく、誰もが平等の権利を与えられるのは当然の話だ。

しかしながら、同性愛者が真剣に異性愛者と同様に結婚式をあげたいとか、世間に自分たちの愛を認めてもらいたいというような、極端に結婚を美化した話をされると、一体いつの時代の話をしているのかと疑問に思う。

同性愛者のカップルがパートナーの年金や遺産の相続権や所得税の控除を、異性愛者のカップルと同様に認められるように求める論理はもっともだと理解できる。実際、同性愛者の結婚が認められる以前に、これらの権利は既に認められていたはずだ。

不思議なのは、なぜ、同性愛者があそこまで結婚を欲したのかだ。北米では現在結婚をしている人口が50%以下になっている。また、実際には約50%の結婚が離婚に終わっているわけで、異性愛者の多くは、この現状を無視したりはしない。別に異性愛者のシングルの割合が増えているわけではない。結婚という形を取らずに一緒に時間を過ごしているカップルの数が増えているのだ。

社会が急速に進化していく中で、複数の人間を結ぶ関係も同様に進化している。一緒に時間を過ごしたいという2人の関係は既に様々な形に多様化してしまっている。それらを全て結婚という古ぼけた概念で定義しようすれば、結婚が離婚に終わってしまうのも無理はないはずだ。

つまり、結婚という概念自体が事実上意味を失い始めている。社会が、結婚しなくても子供を産み家族をつくることができる場として機能し始めている中で、本当に同性愛者は結婚を欲したのか。もしかしたら、ただ単に、「周りがみんな持っている権利だから、自分が持てないのは不公平」、あるいは、「同性愛者の存在自体を軽蔑する人達にこれが差別であることを公に認めさせたい」、こんな理由で結婚を求めたのだろうか。

子孫繁栄、結婚に関連したビジネスがもたらす経済効果、結婚とういう概念が存続しなければならない理由が全くないわけではないのは理解できる。しかし、政治的にも、結婚とういう概念は現実とは全くかけ離れたイメージで語られ、それに踊らされる人も後を絶たない。結婚は宗教化しているだけでなく、宗教以上に宗教的な力を持っていると言っても過言ではない。その上、信仰者の多くは、実際に50%は失敗するという現実にも、自分だけは違うと真剣に信じ込んでしまう。こんなに怖い宗教が他にあるのか。

カナダの同性愛者が結婚を勝ち取ったことで、将来的に予想される経済効果は大きく、社会においても、いかなる差別も許してはいけないという象徴として重大な意味があったことは確かに認める。

しかしながら、結婚という概念が現状にそぐわない中で、あのドタバタ劇をやってまで勝ち取った物の中身の古さを、同性愛者の人たちは本当に認識しているのだろうか。

差別されたくないという思いに取りつかれて、自分たちにとって本当に大事な物が何なのか忘れないで欲しい。

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