China vs. US For Chen Guangcheng – 横顔しか見せない真実

 
先月中国の山東省で自宅軟禁状態にあった盲目の人権活動家、Chen Guangheng氏が北京のアメリカ大使館に保護を求めて逃げ込むというニュースが報道された。Chen 氏は、過去に「一人っ子政策」の一環として避妊や中絶を強要していると中国政府を告発して、4年間の投獄生活を強いられた。その後、2010年9月に出所して、以後、妻子と共に山東省の自宅で軟禁状態に置かれていた。

米中間の交渉の末、中国政府側がChen氏の安全を保障し、家族との面会も約束したことで、 Chen氏は中国国内に留まることを決意し、アメリカ大使館を出て、北京市内の病院に身柄を移された。

ところが他方で中国はアメリカが中国国内の問題に対して干渉していることに憤慨し、アメリカ側からの謝罪を強く求めているという。

一瞬、中国の独断的態度に、唖然、この場合、中国が人権を尊重した国であれば、謝罪を求める道理もある。ところが、これだけ明確に人権を無視している事実が世界に知られているのにもかかわらず、それを全く棚に上げて、Chen氏を助けようとしたアメリカに対して謝罪を求める神経が全く理解できない。

それにしても、こんな状況で、一体なぜChen氏が中国に留まるという選択肢が出てきたのか。

案の定、翌日のニュースで、Chen氏は、病院で妻と面会した後であらためてアメリカへの亡命を希望したという。理由は、彼の不在中、妻が拷問を受けたことを知らされ、中国にいては身の安全が確保できないと判断したためだという。

中国が理詰めで話の通る相手なら最初からChen氏が自宅軟禁状態を逃れてまで、わざわざ北京のアメリカ大使館に保護を求めて逃げ込んだりはしないはずだ。Chen氏は本当に不在中に彼の妻が拷問を受けることを予想しなかったのか。

大統領選のキャンペーンが激化するアメリカでは、この時すかさず共和党候補のMitt Romney議員がChen氏の保護に関する民主党の対応の甘さを厳しく批判した。

アメリカ民主党にとってみれば、アメリカの経済復興を支えるために米中関係をしっかり安定させることが最重要課題であることは言うまでもない。今回の事件が経済と安全保障を焦点とするはずの米中会談を控えていた矢先ことだっただけに、米国側の動揺は隠せなかったはず。一部のメディアがアメリカ側は米中関係が深刻な対立関係に発展するのを回避したと報道していた。本当にそうなのかと思ったその翌日にすべてが翻ってしまった。

中国で著名な盲目の人権活動家、Chen Guangheng氏、オバマが率いるアメリカ民主党、ロムニー率いるアメリカ共和党、国民を独裁的にコントロールする中国、ほんの一瞬まるで人権保護が最大の焦点のようにメディアが脚色する世界がある。でも本当にそうなのだろうか。

米国務長官が今回中国を訪れた目的はChen Guangheng氏を保護するためではなかったはずだ。今のアメリカの経済復興の鍵を握る米中関係を犠牲にしてまで、たった一人の中国の人権活動家を守ろうという意志が本当にアメリカにはあったのだろうか。あの状況で、もし保護しなかったら、国際社会のアメリカに対する評価はどうなっただろうか。

中国がChen Guangheng家族を保護するつもりがないニュースが流れると同時に、アメリカの共和党が民主党の対応の杜撰さを責めるコメントを流す。でもこれは別に人権保護を訴えるためでもなく、Chen Guangheng氏をサポートする意図でもない。ただ単に選挙戦を共和党に有利に進めたいという思惑があるにすぎない。

Chen Guangheng氏は、中国に留まっていては安全が確保されないと言い始める。中国の著名な人権活動家であるChen Guangheng氏がそんな単純なシナリオを予想できなかったとは思えない。米国務長官訪中スケジュールに合わせて、北京のアメリカ大使館に保護を求めて逃げ込んだ時点で、中国政府がその行為に対する報復手段として、彼の家族や親戚や友人に拷問を加える可能性があることくらい知っていたはずだ。彼の脱走を助けた人々も含め彼らの思惑の中に、Chen Guangheng氏がLiu Xiaoboに続いてノーベル平和賞受賞を狙う思いが全くないと言い切れるのだろうか。

外目には世の中に人権保護を訴えるように見えるこの事件、正直、犠牲者役を見事に演じるChen Guangcheng氏が米中関係を利用して漁夫の利を得ようとする姿にノーベル平和賞というよりはアカデミー賞主演男優賞でも授与したいぐらいだ。

例えば社会からマフィアが消えることがないのと同様に、世界の国レベルでの問題児も決して消えることはない。イラク、ロシア、シリア、北朝鮮と並んで、今後、どれだく多くのChen Guangcheng氏が現れたりしても、中国の人権を全く無視した独裁的冷酷さは永遠に変わるとは思えない。

世界的に正義の味方を演じるアメリカでさえ結局は政治的利害関係に操られているにすぎない。

間もなくGDPがアメリカを抜いて世界のトップに躍り出ようとする国がこんな状態にあって、一体どこで、誰が、どうやって人道主義を世界に伝えようというのか。

これでは、米中間の新たな冷たい戦争が語られるのも無理はない。

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Norway Massacre – 納得できない刑法原理

 
昨年7月22日にノルウェーで起こったAnders Behring Breivik(33歳)による爆発・乱射事件。77人もの人命を奪ったこの事件で、3月11日にBreivik被告がテロによる殺人罪で起訴された。この訴訟の焦点は被告の責任能力の有無。これまで精神鑑定が2回行われ、昨年11月に行われた1回目の鑑定の結果では精神障害が認められ、責任能力なしとの判断が下された。ところが、先月10日に行われた2回目の精神鑑定では精神障害は認められず、責任能力があったとして、半年前に出された1回目の精神鑑定の結果を覆した。

Breivik被告は今回の2回目の精神鑑定の結果に満足しているという。

ちなみに、ノルウェーでは死刑が存在しない。たとえ責任能力が認められ、有罪となったとしても無期懲役が限度。ここで死刑と無期懲役の刑の重さを比較しようとも思わない。

人を何人殺害しても、刑法上、意思能力がなければ、責任能力が認められず、無罪。意思能力がなければ刑法上問われるべき責任能力がなくなり、違法性が突然消える論理が本当に正しいと言えるのだろうか。

ちょっと考えただけでも、絶対性を思わせる法律が公平に判断できないことを証明するのはごく簡単なことだ。

例えば、赤ん坊が間違って爆弾のボタンを押して何百人もの人間を殺してしまった場合、この赤ん坊に責任能力はあるのか。

例えば、飛び降り自殺した人間が故意に人気のない場所を選んで自殺しようとしたにも関わらず、偶然通りかかった歩行者にぶつかってその歩行者を死亡させ、自殺を図った本人は植物人間になってしまった場合、法律はこれをどう裁くのか。

例えば、海でおぼれている人を誰も助けなかったら、助けなかった人は有罪なのか?その人がオリンピック競泳の選手だったら有罪で、全く泳ぎができなかったら無罪? ベースがぐらぐらの法律を本当に法律と言えるのか。

それぞれの罪の重さをはかる量りも、一体だれが責められるべきかを見つける探知機も、正直ちゃんと機能しているとは思えない。法律の専門家というお面をかぶって、全てを公平に判断しているふりをする社会がそこにある。

人間がどんな状況においても公平に判断できるのであれば、法律なんていらない。でも、それができないから、法律がつくられる。ところが、法律も完璧にはなれない、その上、その解釈は所詮人間によってなされるのだから、完璧を望むことはほぼ不可能に等しい。

今回の事件でも去年の11月に行われた精神鑑定の結果と先月行われた精神鑑定の結果が違うとういことについて人々はどう考えているのか。半年で変わってしまう専門家の鑑定がどれだけ当てにならないかよく分かる。まして、この結果が被告が償うべき罪の重さを決めるというのであれば、訴訟の争点自体に問題あると言わざるを得ない。

子供を無残にも殺されてしまった家族の悲しみはどうやって癒されるべきなのか。

アルカイダにヒントを得て77人の全く罪もない子供たちを殺害したBreivik被告。多分ノルウェーの街頭で100人に聞いたらほぼ全員が被告を死刑にするべきだと考えるにちがいないこのケース、現行の刑法はそれでもなお、当てにならない精神鑑定の結果が決定する責任能力の有無にこだわるのか。

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QUEBEC Tuition Hike – カナダの中の異国、ケベック

 
もう3カ月近く、数万人にも及ぶ数の学生がデモを続けるケベック。一体どうしたんだろうと誰もが思う。ニュースのヘッドラインに現れる75%学費アップに一瞬驚く。大学教育はお金がなくても、誰でも受けられるようするべきだと叫ぶ学生たちがモントリオールの街中をデモ行進する。一部の学生が警察と争う姿がメディアを通して流れてくる。

ところが、ケベック州以外の人達には、なぜこのデモが学生の逮捕にまで至っているのかが全く理解できない。ケベック政府の計画通りこの75%の学費アップが実施されたとしても7年後のケベック州の年間の学費はおよそ3,800ドル(約32万円)しかならず、オンタリオ州の学費の約半分にも満たない。ケベックの学費はカナダ国内では一番低く抑えられている。公平にこの現状を見た時にカナダで一番学費が高くなっているオンタリオの学生がデモを起こすのであればまだ理解できる。ところが、相対的に一番優遇されている州の学生が憤慨する理由がどうしても見当たらない。

モントリオール大学政治科学の教授であるPierre Martinさんがこんなコメントしていた。この論争は、大学教育に対する2つの考え方の相違に端を発しているという。1つはケベックでは大学教育は所得に関係なく誰でも無料で受けられるべきだという考え方が根づいている。もう1つはケベック州を除くカナダでは、教育費は将来高所得を得られる職業に就くための投資として考えられている。

大学教育はお金がなくても誰でも無料で受けられるというのは、社会主義的で、誰もが願う理想の社会であり、決して間違っているとは思わない。ただそれを現行ケベック政府に学費アップをやめることをデモを通して訴える神経が全く理解できない。あれじゃ、手荒い借金とりと変わらない。

ケベック自由党がケベック州の政権を2008年に勝ち取った時も、彼らの公約の中に学費が上がることはちゃんと謳われていたわけで、国民の大半がそれを支持していたことは否定できないはずだ。

Martin教授によれば、メディアを通して見る学生デモの姿はケベックの学生大多数の意向を反映しているわけではないと言っている。学生の多くは学費アップに対して憤慨してどころか、一体いつになったらコースが再開するのか、予定通り卒業できるのかを心配しているという。客観的にみて、どう考えても一番優遇されている学生が文句を言っているのを真剣に検討する必要が本当にあるのだろうか。

大体、大学教育が国民全員に無料にできるシステムが現実に可能なら、ケベック以外の州が既に実施していてもおかしくないはずだ。もしケベックでこれを本当に実現するとしたら、税金をどこかで上げるしかない。唯一考えられるのがケベック州の高所得者層から学費を税金として吸い上げるしかないのは彼らも十分理解しているはずだ。それが本当に可能なら現行政府に学費アップをやめることを要求するのではなく、政府から高所得者層と交渉してくれるよう依頼するぐらいのことができないのだろうか。

いずれにしても、今回のこの学生デモに関する限り、残念ながら、”Wake up and smell the coffee!”と言わざるを得ない。

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Speed doesn’t cause an accident! You do! -スピード違反の違法性とは?

 
今年の1月にスピード違反でチケットを切られた。駐車違反とは違いデメリットのポイントが与えられ、免停にも繋がるため気をつけなくてはいけない。(誤解しがちなこのデメリットのポイントは失うのではなく、貯まっていくものだ。)2年ぐらい前に急ぎの用があってスピード違反でチケットを切られたことがあった。その時は潔くデメリットのポイントを認めた。でも今回のチケットは正直警察官の判断に納得がいかなかった。勿論、議論することなどできるはずもない。

早朝テニスの帰り、ハイウェイを降りて時速60キロ以下で走るところを20キロオーバーで走ったと言われた。ほとんど車の走っていない朝の早い時間に、まだなりたての警察官がチケットを切るターゲットを探していたようにしか思えなかった。実際、この警察官は隠れて止まっていただけで、通常よく見る速度測定器みたいなものを立てていたわけでもない。そうは言っても、こっちにも証明できるものは全くないわけで、この警察官の判断を受け入れることしかできない。

オーストラリア訛りで、すぐに新米警察官だという印象を受けたこの警察官に、デメリットのポイントが気になったので尋ねると、こんなことを言われた。

このチケットの裏に書いてあるオプションのうちの2つ目(検察官にあって罰金とデメリットポイントについて話をするオプション)を選んで、Toronto South Court (Administration Office)で検察官と会うことで、多分デメリットのポイントが免除されて、罰金も半分以下にしてくれるというのだ。駐車違反のチケットで似たような話を聞いたことがあったので話の内容自体には驚かなかったが、チケットを切った警察官本人が切った相手に対して、そんなことを言っていいのか。

そこまで言うのなら最初からこんなチケット切らなければいいのではないかと内心怒りがこみ上げていた。翌日すぐに裁判所に行って検察官と話をするオプション2を選ぶ意志を伝える。裁判所は自分と同様の人たちでごった返していた。4-6週間後に通知が来て、また裁判所に向かう、有罪を認めさせられて、例の警察官が言った通りのことが起こる。とにかくデメリットのポイントが貯まらなくてホッとした。

制限速度に関する規則には昔からずっと疑問に思うところがある。駐車違反に関しては全てではないにしても理解できる。その場所に車を止めることで交通の流れを妨害するのであれば罰せられてもしょうがない。

ところが、スピード違反の違法性は一体どこにあるのか。スピードの出しすぎによって交通事故が発生する可能性を高めていることにあるのだろうか? だとして、例えば、誰かが車で人を轢いて殺してしまったとする。そしてその時、ドライバーは制限速度を超えて車を飛ばしていたとする。この場合、事故を起こした原因はスピード違反にあるのだろうか。

スピードを出すドライバーが必ずしも事故を起こすわけではない。現実には事故を起こすドライバーの原因は出したスピードではなく、本人の不注意にある。実際、事故を起こすドライバーは何度も事故を繰り返すのは否定できないはずだ。その時、制限速度を超えてしていたとしても、そのことを事故の原因にすぐに結びつけようするのが妥当と言えるのか。

例えば、トロントからモントリオールに向かうハイウェイ401の途中で前後に全く車を見なくなる瞬間は決して少なくない。常識的に考えて、前後に全く車がなくて、例えば、BMWで時速200kmを出したとしても、第三者に傷害を与えるような交通事故が起こるとは思えない、ましてそれを違法だとして罰金を科すというのは本当に許されるべきなのか。

現行の道路交通法では免許証では判断できない、ドライバーによって異なる安全性のレベルを全く考慮に入れていない。

例えば、10年間全く無事故の場合、制限速度をある程度オーバーして、警察に止められても、ウォーニングで終わらせるとか、そんな対応がなぜできないのか。10年間無事故の人間はかなりの高い確率でその後も事故は起こさないだろう。たとえ制限速度をオーバーして運転して警察に止められたとしても、現実には誰かに怪我を負わせたわけでもなんでもない。

いずれにしても、現行法では安全とは全く無縁の速度違反でセーフドライバーの多くから税金のように罰金を吸い上げているようにしか思えない。もし、規則を変えることができないのなら、車の製造メーカーに制限速度以上のスピードがでない車をデザインさせるべきではないのか。今のオートメーカーにその技術がないとは思えない。

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“Stand Your Ground” is to blame? – 拳銃も、法律も人を殺したりはしない

 
2月26日“Stand Your Ground”という正当防衛を簡単に認めてしまう法律が存在するフロリダである悲劇的事件が起こった。

Trayvon Martinという17歳の黒人少年がコンビニに買い物に行った帰りに、近所の自警ボランティアのリーダーを務める28歳ヒスパニック系のGeorge Zimmermansに後をつけられ、口論の末に射殺されるという事件だった。

ところが殺人事件だったのにもかかわらず、地元警察は全くの捜査なしで、これを正当防衛として簡単に片づけてしまった。この警察側の信じられない対応に全米で抗議運動がおこり、オバマ大統領までコメントするなど、真相究明に向けての本格的な捜査が始まった。

捜査が難航する中で、メディアは、事件の目撃者達の証言内容に矛盾点があることを指摘したり、黒人に対する人種差別によるヘイトクライムの可能性を示唆したり、警察側の対応の杜撰さを批判したり、正当防衛が簡単に認められてしまう“Stand Your Ground”法に対する見直しを求める一般の人々からのコメントをなど伝えるなど、必死にメディアとしての役目を果たそうとしているのはよくわかる。

ただ、今回の事件に関する限り、今週、第二級謀殺で起訴されたのに対して、被告側は未だに正当防衛を主張するつもりのようだ。現在まで明らかになっている情報だけでも、正当防衛を主張することに無理があるのがなぜ分からないのか理解に苦しむ。

911のオペレーターの指示に従わずに、Martinの後を追って行ったGeorge、口論になってどちらが先に手を出したかは問題ではないはずだ。追わなければ、今回の事件は起こらなかったのだから。まして、Martinが拳銃を突きつけて、他の第三者に危害を加えようとしていたわけでもなく、強盗に入ろうとしていたわけでもないのは明らかだ。実際、射殺された時、Martinが持っていたのはキャンディーとアイスティーだったという。自分で第三者に対して攻撃を仕掛けておきながら、自分の身を守るために射殺したのを正当防衛とよく言えたものだ。

警察側の対応にも驚く、Georgeには犯罪歴がないから、正当防衛。メディでも両人の過去について報道しているが、過去に犯罪歴がなかったら誰でも人を殺して、正当防衛を認めてもらえるのか。もしそうなら、一生に一度は人を殺しても無罪放免だと公言しているのと変わらない。息子が殺されて泣き崩れる父親にそんな説明しかできない警察がアメリカには存在するのか。オバマ大統領が憤慨するのも無理はない。

今回の悲劇の背景には、“Stand Your Ground”法が物語るフロリダの治安の現状とそれを改善しようとして頑張っている自警ボランティアの姿がある。今回の事件を人種差別とか、警察の対応の杜撰さとか、武器使用や正当防衛を簡単に許してしまう法律のせいにはしてはいけないはずだ。法律や拳銃が人を殺すのではない。法の下に与えられた権利を濫用して過ちを犯しているのは人間自身であることを忘れてはいけない。

今回の事件で加害者が911オペレーターの指示を無視してまでMartinを追跡した理由は正直全く想像がつかないわけではない。人種差別にはとりわけ敏感なここトロントでさえ、日常生活の中で、危険な車の運転、街中での常識はずれなマナー、毎回同じ人種の顔が視界に入ってくると感じることが多いのは否定できない。これをいつもただの偶然だと思うのにも限界がある。

差別が始まるときには、かならず差別する側と差別される側双方がその原因をつくり出している。それを人種差別によるヘイトクライムと言っても何の解決にもならない。Martinの死を無駄にしないためにも、今回の事件が、有罪判決を受けるであろうGeorgeの過ちを責めるだけで終わってしまってはいけない。重要なのは、自警ボランティアがいらないフロリダをつくること。そのためには、誤解が生み出した憎しみや怒りを越えて、差別するアメリカと差別されるアメリカが互いに協調し合う努力をする必要があるはずだ。その協調が実現しない限り、今回の事件の真相究明も、根本にあるフロリダの治安改善という問題の解決には繋がらないような気がしてならない。

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Ontario Brothels Legalized For Safety – 目的は売春婦の安全確保

 
オンタリオ州の上位裁判所(Supreme Courtではなく州の中では最高位にあるSuperior Court)が3月26日(月)、公に売春宿を経営することを合法化した。カナダではこれまでも売春行為自体は違法ではなく、売春宿を公に経営したり、客引きをしたりしてはいけないという規制があった。実際、この客引きをしてはいけないという部分は引き続き違法行為として規制される。勿論、この判決に対して60日以内であれば政府側からの上訴が可能。

政府側のスポークスマンが、この判決に対して“Harper首相が売春は社会の阻害要因であり、コミュニティー、女性、弱者に対して悪影響を及ぼすものだという見解を表明しているように…”という引用をして、上訴を検討中であることをほのめかしている。

これにはちょっとびっくり。同性愛者の結婚が認められるほど進んだカナダの首相でさえ、売春行為についてこんなコメントしかできないのであれば、今回の法制化に至るまでこれだけ時間がかかってしまったのも無理はない。

売春行為は合法なサービス業であるにもかかわらず、提供されるサービスの性質上、サービスを享受する側からの搾取行為が絶えない。実際、暴行や殺人に至るケースが少なくない。合法なサービスを提供する側の安全を確保するための法律が整備されるのは別に当然の話のように思う。正直先送りされすぎた法制化としか言いようがない。

今回の法改正によって、売春宿を公にオープンにすることが許可され、経営者側は警備員を雇うことによって、今後はサービスを購入する側からの搾取行為がしっかりと取り締まられることになる。

世の中には聞いた瞬間に不快感を覚える言葉や概念がたくさんある。だからと言ってそれが必然的に違法なわけではないはずだ。ここでも無意識のうちに洗脳されてしまった価値観が物事の本質を見ることを邪魔してしまう。

憲法で職業の選択の自由が保障されている中で、売春を職業とする人たちの労働環境が法律の力で保護されるべきなのは当然であり、議論の余地はない。

ところが、人々は、これを例えば「売春行為は猥褻行為だ。」とか、「売春宿がうちの近所にできたらどうしよう。」とか、「子供たちにあれは何って聞かれたらどうしようか。」とか、反射的で全く正当性を欠いた拒絶反応によって、合法なサービス業務自体を否定しようとする。これは売春行為の違法性を問う議論とは全く関係がない。

売春行為に関する問題は、サービスの内容自体ではなく、そのサービスの提供されるプロセスの中で、サービスを享受する側あるいは提供する側が契約の根底にある信頼関係を無視した行為に出ることによって生じている。

法律が規制するしないにかかわらず、売春が社会から消えるということは考えられない。売春以外にも存在を回避できない物は社会にはたくさんある。Gay marriage, Abortion, Challenged people, Pedophile, Euthanasia, Capital punishmentなど挙げたらきりがない。大切なのはそれらから目をそむけず、人権尊重の原理に沿って、それぞれをどうやって受け入れていくかが社会に課せられた課題と言える。今回の法改正はまさにその義務をしっかり果たしていると言わざるをえない。

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What is Conventional Beauty? - 洗脳された美しさの定義

 
大昔、ハリウッドが創り出した美しさの定義はもう時代錯誤も甚だしい。大体、ハリウッド映画なんて毎年95%以上の作品が駄作。トロントの街を歩いていても、もう白人社会というイメージが存在しないのに、TVや映画にそれが反映されていない違和感はさらにテレビ離れを煽っているように感じる。トロントにアジアフィルムフェスティバルがあるのもその思いを反映していると聞いた。

カナダに暮らしていて、時々日本に行ったりすると、日本には綺麗な人が多いと思う。ちょっとだけ綺麗というのではなく、かなり綺麗だなあ思わせる人が多い。ところが、話をしてみると、東洋人よりも、白人のほうが綺麗だと思うという話を何度も聞かされたりする。理由を聞いてみると、白人のほうが顔が小さくて、手足が長いとか。挙句には白人と日本人のハーフの赤ちゃんが一番かわいいなどという話まで出てくる。一体いつの時代の話をしているのだろう。内心唖然として言葉を失う。

21世紀に、未だに人の美しさの定義まで、洗脳されたままの先進国社会があっていいのか。日本人でも顔が小さくて、足の長い人はたくさんいる。勿論、白人にも顔が大きくて足の短い人なんていくらでもいる。このこと自体既に洗脳を感じる。Beauty is in the eye of the beholder. 何が自分にとって美しいかなんて、個人によって違って当然であって、Conventional Beauty (90%の人が美しいと感じる人の美しさ)を定義しようとすること自体意味を失っているように思うのは自分だけなのか。

実際、ハリウッドは現状白人が大多数を占めているから、まるで白人が綺麗みたいに見えているが、この状況が例えば一変して、ハリウッドの99%が東洋人あるいは黒人が占めているとしたら、どういう状況になるか。言うまでもなく、大多数を占めている人種が一番綺麗だというイメージをグローバル化させようとするだろう。これは本当に単純かつ時代によって変わりやすい真実だということを、理解できない人が多いのには驚く。

ニューヨークタイムズで日本が、ほぼ半年に一回かわるトレンドを追い続けるファッションコンシャスな文化を持つ国と言われていたのを思い出す。みんなと同じファッションじゃないと気がすまないトレンドは理解できる。でも、みんながあの人が好きだから、私も、僕もじゃ、うーん? メディアによる洗脳がかなり影響していることは察するが、この21世紀に民主主義の原理が美しさの定義にまで適用される必要はないはずだ。

大体、アメリカだけでなくカナダを含めた北米の大きな社会問題の一つに肥満の問題が浮上している。アメリカの大都市、例えば、ニューヨークのマンハッタンに行っても、ハリウッドのイメージなんてかけらも見ることはできない。目に入るのは肥満に悩む人の群れが衰退するアメリカを象徴するかのようにせわしく、大声で話しながら、不格好に行き来する姿だ。

まだ洗脳されていない日本の子供たちには、できれば周りに影響されずに、純粋に他の誰でもなく、自分自身が好きだから、好きと言えるように育ってほしい。美しさの定義は自分らしさが一番重要なはず。Conventional Beautyという概念はメディアが創り出す誇大広告にすぎない。

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Immigration will help! -移民政策は雇用機会を増やしても減らしたりはしない!

 
うちの会社と同じフロアーにFamily Supportというトロント市が運営するグループが入っている。市役所の出張所みたいなものなのだろうが、フロアーの半分以上を占拠している。正直一体どんなサポートを提供しているのかもよく知らない。時々赤ん坊が泣いている声が聞こえるのでFamily Supportなんだなあと思う。月-木は4:30PMごろに、金曜日は1:30PMぐらいに、一斉に帰る声が聞こえてくる。ある日、ある女性が大声で、”4:30 comes so fast!” と言っているのを聞いて思わず笑ってしまったことがある。どう考えてもそんなに仕事をしているとは思えない。

テレビで市の公務員のレイオフの話をきくと、いつもなぜかあのフロアーの人たちのことを思い出す。そして、どうしてあそこがその対象にならないのかと思う。最近、現市長のRob Fordが肥満を気にして体重を減らすことを公言したニュースを聞きながら、うちのフロアーの人たちにもぜひ参加して欲しいと思った。現状、女性が2、3人で立ち話をされると廊下の先が見えなくなってしまう。(というのはちょっと言いすぎか・・)

一体何がどうなってカナダの公務員がこんなにのんきに、いいかげんに、怠け者状態で仕事をしていながら、毎年1度に3週間から4週間の休暇を取って旅行ができるのか。こんな世界がどうしてここでは許されて、あんなに一生懸命かつ長時間働く日本では許されないのだろうか。

なぜだろう? こんな疑問を持つのは自分だけではないはずだ。

カナダの移民政策は、移民を希望する人たちの中から資格がある人を自分たちの勝手な尺度で選んで、永住権を与えるということだけで、年間25ビリオンドル(日本円で約21兆円)の売り上げをあげている。この数字からだけでも、政府、民間の間にかなりの雇用機会が創出されているのが想像できる。こんなうまい商売が他にあるのか。

公務員試験などというものが全くなく、実情ほとんどがコネで採用が決まっていて、かつ、市民権をもった人材を優先的に雇うという政府のシステムが、信じられない不公平を生み出しているのにもかかわらず誰も問題にしたりはしない。どうしてこんなことが可能なのか。

言ってみれば、移民希望者から桁外れに法外な入場料をとるだけでなく、移民後も法外な税金を課して、奴隷のように働かせる。これで政府に勤める人たちの安定した生活が確保されるのだ。発展途上国からの移民にとって、それでも自国にそのまま残ってカナダに移民しなければ実現できない夢がここでは実現できる。だから、まるで皆が幸せのような気がする。

結局、人の幸福というのは、他人の不幸を犠牲にしてしか成り立たない。ただし、不幸な人が不幸なことに気がつかなければ、誰も文句は言わないのだ。それがこんないい加減が許される国がまるで幸せに見えている理由の一つのような気がする。

出生率が低下し高齢化が進む中、将来的に産業を支える柱となる労働人口不足が懸念されている日本にとって移民政策は必要不可欠と言える。

日本には、地方に行けば土地は十分余っている。それを使ってできることの一つが移民政策のような気がしてならない。そのスペースを移民政策でどう利用していくかはカナダから学ぶべきことが結構あるはずだ。こんないい加減な国ができることを、あれだけ勤勉で優秀な民族である日本人ができないはずがない。

いずれにしても、移民政策に力を入れることで、日本人の仕事が外国人に取られてしまうというのは全くの誤解だ。それどころか、これは間違いなく将来的に大きな見返りが期待できる投資であり、今の日本の経済危機からの脱出を助ける数少ない手段の1つだと感じているのは自分だけなのか。

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Let’s face it! -悪いのは煙草会社じゃない

 
今週アメリカの連邦政府が喫煙者数の減少速度にかげりが見えていることを懸念して、年間5,400万ドルの予算をとって、喫煙反対を訴える、かなり攻撃的な広告キャンペーンを展開すると発表した。州政府レベルではカリフォルニアやニューヨークなど、多くの州で喫煙者を減らそうとするキャンペーンは今までにも行われている。ところが、よくメディアの話を聞いてみると、5,400万ドルという予算は、煙草会社が通常2日間のプロモキャンペーンにかける予算にも満たないということだ。

この話を聞きながら、ふと今週カナダでも煙草会社に対して270億ドルに及ぶ損害賠償金を求める史上最大の集団訴訟が始まったことを思い出した。約2百万人がこの訴訟に参加して、勝訴の場合は原告側の一人につき約一万ドルが煙草会社から支払われるという。

この集団訴訟は実はケベック州のモントリオールで行われている。個人的には、煙草がモントリオールの数少ない汚点の一つだと感じていたので、この集団訴訟について驚きはなかったものの、やはり、煙草会社に責任を追及する論理には幻滅した。

原告側の女性の一人がインタビューでこんなことを言っているのを聞いた。「私は1960年代に煙草を吸い始めたんだけど、あの時は煙草を吸うことがカッコイイことだって煙草会社がテレビコマーシャルなんかで言ってたからそのイメージにまんまと乗せられちゃったのよね。」

Imperial Tobaccoの広報を20年担当しているMichel Decoteauxさんが言うには、「現段階では、世間一般の人やメディアに対して、論理的なアプローチをしようとしても無理。彼らは煙草会社に煙草は有害なものだったと認めさせたいだけなのだ。」

この集団訴訟は13年かけてようやく始まって、これからまた判決が出るまでに何年もかかる。仮に何らかの判決が出たとしても、控訴するのは目に見えている。一体だれが漁夫の利を得ているのか。勝訴、敗訴に関係なく私腹を肥やすのは誰なのか。

世の中には煙草以外にも体に有害なものはたくさん売られている。例えば、アルコール、でも飲みすぎて、アル中になったからアルコールの製造会社を訴えるのか。チョコレートやアイスクリームを食べすぎて肥満になり、糖尿病になったらその製造会社を訴えるのか。

煙草会社が力ずくで無理やり誰かに煙草を吸わせたというのか。たとえ1960年代であっても、煙草が有害であることは誰もが少なからず知っていたはずだ。広告に踊らされて吸いはじめて、中毒になったからと言って、自己責任を煙草会社に責任転嫁しようとする論理が本当に妥当だと思っているだろうか。

正直、弁護士がお金がもらえると言ってケベックの貧しい喫煙者たちをそそのかしているとしか思えない。本当に罰せられるべきなのは原告でも、被告でもなく、彼らを利用して私腹を肥やそうとしている法律の専門家たちではないのか。

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Patience is a virtue… - 普通じゃいないのは日本なのか?

 
以前、中国の国内線で北京から香港に飛んだ時のことだった。搭乗して、席につくまでに何回も人が自分にぶつかってきたような気がした。気にせず、席についた。離陸までの間に、あることに気がついた。中国人の乗客のほとんどが、お互いにぶつかりながら通路を歩いている。時には席にもぶつかっていたような気がする。日本人が北米人から、ぶつかっても謝らないとか、着陸した後、飛行機から降りるマナーについて驚かれたりするのとはちょっと種類が違う。彼らには日本にある躾という概念がないのか。

中国からの移民が最も多いとされるカナダでは、やはりサービス産業が提供するサービスのクオリティーの低さが顕著になっている。勿論、これは中国人だけのせいではない。発展途上国のサービスのクオリティーはどこも似たり寄ったりにちがいない。とりわけ、この20年ぐらいの間に、さらにひどくなっているのは否めない。

例えば、カナダにはRogersというもともとケーブルテレビの会社と、Bell Canadaという言ってみれば日本のNTTドコモのような会社が存在する。勿論、今ではこの二つの会社は共に、TVや固定電話だけでなく、携帯、インターネットのサービスを提供している。事実上、この二つの会社が市場をほぼ独占している。

以前、Rogersからケーブルテレビ、インターネット、携帯電話のサービスを購読していた時のことだ。彼らのサービスの支払い方法にはPre-authorized paymentとうのがあって、あらかじめクレジットカード番号を登録しておくと、自動的にチャージしてくれるという便利なシステムだった。ところが、ある月の請求書で、突然3カ月分の請求をされたことがあった。まあ、ちょっとした間違いだと思ってまずはRogersに電話する。この時点では一本電話をすれば、すぐに解決する話だと思っていた。ところが、最初にRogersに電話をすると、Visaのミスだから、Visaに電話するようにいわれた。それで、Visaに電話をするとRogersがチャージしてくるのをチャージしているだけだから、Rogersに話をするように言われた。

RogersもVisaも、カスタマーサポートのトレーニングは限りなくいい加減。同じ質問をしても、毎回と言っていいほど違う回答が出てくる。この件は最終的にRogersとVisaを含めたコンファレンスコールにまで至った末、約8カ月後にようやく解決した。

実際このサービスクオリティーはカナダでは典型的なレベル。別にRogersとかVisaが特別ひどいわけではない。例えば、日本の郵便局にあたるカナダポストは郵便が紛失することで有名。普通郵便やはがきがなくなるだけでなく、書留でだした郵便がトレースできずになくなってしまう。カナダポストは紛失したことについて、「ごめんなさい、郵送料は返します。」で終わってしまう。本当に先進国でこんなことがあっていいものかということが日常茶飯事。

確かに日本と比較して、カナダが、衣食住に関して、クオリティーの高さがあることは認めたいと思う。しかしながら、その反面、間違ってもいい、間違ったら、その間違いを改めればいいみたいな、リラックスしすぎた発展途上国的なマインドは永久に消えないのだろうか。

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