Starkly, it is a better deal, isn’t it! -カナダ人と結婚するメリット

 
最近は国際結婚という言葉がもう古めかしく聞こえると同時に、日本人の女性が北米に出会いを求めてやって来て、見事に相手をゲットして結婚するというケースも珍しくない時代になった。

一昔前は発展途上国の女性が、永住権を目当てにカナダ人の男性と結婚するという話をよく聞いたような気がする。勿論、アメリカ映画「Green Card」にあるようにヨーロッパの男性が、Green Cardを手に入れるためにアメリカ人女性と結婚するというのも映画になるぐらいだから珍しくはないはずだ。

とりわけ、カナダは移民の国ということもあって日本人女性がカナダ人男性と結婚することに全く驚きはないが、それにしても最近は本当にその傾向が以前にもまして加速しているように感じるのは自分だけなのだろうか。

日本を訪れて生活を体験したカナダ人男性が、日本での女性の扱われ方に驚きを示すというのは、誰もがよく聞く話だろう。

それとはちょっと異なるが、最近自分で体験した面白い出来事があった。日本の国内線に乗った時のことだった。女性のフライトアテンダント(蛇足だが、なぜか未だに女性だけなのにもちょっと違和感が絶えない)が、自分の機内に持ち込んだ結構重い荷物をオーバーヘッドビンに上げようとした。勿論、そんなことをさせてはいけないと思って自分で上げたのだが、そのあと成田からトロントに向かうフライトでは搭乗して席に着くなり、女性のフライトアテンダントに元気な小学生が叫ぶように”Can you help me put this luggage in the overhead bin, please?” と言われて、自分の荷物でも何でもない他人の荷物をオーバーヘッドビンに上げるのを手伝うように言われた時、まるで夢から覚めたように英語を話し始め、カナダに戻ったと感じた瞬間があった。

そして思い出すのが、初めてオタワでカナダのハイテクの会社で働き始め、北米の男性の大変さを目の当たりにした瞬間。勿論仕事ではなく、結婚生活の大変さ。といっても、日本の長時間労働を誰もが当然だと思っているのと同じような感覚で、カナダ人男性のほとんどがこうやって暮らしているので、別に大変だとは思っていないのかもしれない。

とにかく、どんなに忙しくても必ず奥さんに一日一回は電話をしてご機嫌をとる。どんなに忙しくても、奥さんに頼まれて仕事帰りにスーパーで買い物をして、家で夕飯までつくる世界がある。日本の社会では想像できない常識が当然のように機能している。

ふと、これでは日本の女性がカナダ人と結婚したいと思うのも無理はない気がした。ビジネスで言ってみれば文化の違いから偶然、需要と供給がマッチングしたWin Winのディールが移民の国カナダで大ヒットしたみたいな感じなのだろうか。

これからは各個人が自分では選べなかった国籍にこだわらずに、自分が一番快適に感じる場所を世界のどこかに見つけて、そこを自分の人生を送る場所にするトレンドがやって来てももう驚いてはいけないのかもしれない。

まさにLife starts here…

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Adam Lanza’s real motive stays elusive… -鳴り止まない銃声に戸惑うアメリカ

 
先週の12月14日(金)コネチカット州ニュータウンのSandy Hook Elementary Schoolで20人の小学生と6人の教師の命を奪った乱射事件。

加害者のAsperger シンドロームをかかえるAdam Lanza(20歳)は裕福な家庭に育ち、3年前に両親が離婚して、プール付きの大邸宅で母親との2人暮らし。Adamはこの犯行直前に自分のコンピューターのハードディスクをたたき壊して、母親を射殺しているという。そして、Hook Elementary Schoolで子供20人を含む26人を射殺した後、自分に銃を向けて発砲し自殺した。この時、加害者は加害者の兄、Ryan LanzaのIDを身に着けていたという。

ネット上で濡れ衣を着せられた加害者の兄、Ryan Lanza(24歳)がソーシャルネットワークを通して自分が犯人ではないことを訴えるとともに、メディアの報道でも現在New York Cityに住む父親とNew Jerseyに住むRyan Lanzaはこの事件に関与していないことが何度も繰り返されていた。

その後も様々なメディアを通してAdam Lanzaのプロファイルあるいは犯行の手口に関する確認不能な情報が氾濫し始める。

例えば殺された母親はガンマニアで、Adamを射撃場に連れて行き射撃の練習をさせていた事実。Adamがテレビゲームで射殺行為を含む過激なゲームに耽っていた事実。

無責任な情報が絶え間なく人々の憶測を駆り立てる。メディアが尤もらしく加害者を脚色し始める。

一瞬、メディアによる権力の濫用を強く感じる。親がガンマニアであっても、自閉症の子供が射撃場に連れて行かれて射撃の訓練を受けても、どんなに過激なテレビゲームに耽っても、正常にマインドが機能している人間は人を射殺したりしないはずだと内心叫んでしまう。

加害者もその加害者の犯行動機に深く関与していたと思われる母親ももはや存在しない中で、真相の究明ができるはずもない。ところが、それをいいことにメディアが人々の注意を引こうとする。主観が交じる確認不能な情報を錯綜させて視聴率を上げることに力を注ぐ。

オバマ大統領が銃規制に関して抜本的な改革を約束する。奇跡でも起こらない限り解決不可能な問題に関してまるで本当に何かが変わるように思わせるスピーチをやってのける。

自ら生み出してしまった窮境から抜け出そうとする時にその方法が見つけられないアメリカ。

CNNで銃規制に関するディベートが展開する。討論の中で一方がどんな理由にしても銃保持に反対するのに対して、他方が銃を自己防衛のためにもっと自由に使えるようにすることがこの問題の解決に繋がるという論理が真剣に語られ、ディベートは子供の喧嘩状態。

乱射事件がまるで初めて起こったかのように、罪もない小学生が殺されたことに過去に起きた事件とは違う怒りを口にする人達がメディアのインタビューに答える。

人間の命の尊さは年齢によって変わるというのか?…

自ら銃器をつくりだしておきながら、正当防衛にしてもその銃器を使用することを人々に許しておきながら、何か問題が起こるとすぐに銃に責任転嫁する論理がまことしやかに語られる。

シリアが人々を傷つけることを永遠にやめない状況をこんなにはっきり日々目にしていながら、人間を責めずに、武器に当たるのか。

今回の事件を銃規制の問題にすり替えるアプローチには賛同できない。

この悲劇はAdam Lanzaの尋常ではない人となりに気づいていながら何の対策も講じなかった周りの家族、学校の先生、友達、Adam Lanzaと繋がりを持っていた人達が自分には関係ないと見ないふりをした後禍以外のなにものでもない。つまり、責められるべきなのは、銃ではなく、加害者の異常に気づいていながら、横を向いていた人達全員なはずだ。

武器は人を殺したりしない。殺すのはそれを使う人間なのだ。

銃器はすでに社会に持ち込まれてしまっている。その規制についてどんなにディベートを重ねても解決方法が見つかるはずがない。なぜなら、規制が存在する理由はそれに従わない人がいなくならないことを証明しているからだ。決まりを守らない人間は規制が厳しくなっても数が減ることはあっても消えたりしない。

仮に銃規制が存在しなくてマインドが正常に機能している人間は、武器で人を傷つけてはいけないことを認識している。

銃を入手して犯罪に走る人間は銃規制に関係なく必要ならどんな手段に訴えても武器に手を伸ばす。銃規制なんて眼中にないはずだ。銃所持が許されていないカナダでも乱射事件が起こっている理由はまさにそこにある。

アメリカでNRA(National Rifle Association)がいみじくも「武器を持った悪者には武器を持った正義の味方しか太刀打ちできない。」と言い放って銃所持反対を訴える人々の感情を逆なでした。

彼らの論理は解決方法にはならないとしても、武器を社会から100%消し去ることが不可能であるという現実的な立場に立てば決して間違ってはいない。

繰り返すが、どんなに銃規制を厳しくしてもこの種の事件が永遠になくならないのは議論の余地がない。勿論、本当に100%この世の中から武器を消し去ることができるなら話は別だが。

ロシア、中国、北朝鮮、中東の国々を見る限りそんな世界が近い将来訪れるとは思えない。

今回の事件に関する限り、家族のうち、加害者として考えられるはずの2人が死亡している以上、残りの2人がたとえ知っていたとしても真実を語るとは思えない。状況が状況だけに自らの立場を危うくするような真実を語るとは思えない。時間と共に人々の記憶が薄れるのを待っているにちがいない。

銃ではなく銃が具現化したAdam Lanzaの怒りに目を向けて、社会における家族関係に始まる人間関係のあり方や、自閉症に限らず精神的に障害を持つ人々に対するさらなる理解、人間の弱さを責めずにそれを当然として受け止めて、しっかり問題と向き合う姿勢が求められるべきではないのか。

政府に対してMental Health Careにもっと予算を割くことや、銃規制をさらに厳しくすることを求めても、人々が見ないふりの態度を改めない限り、以前よりも頻繁にアメリカを襲うようになった銃声は鳴りやんだりはしないはずだ。

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What really killed Jacintha Saldanha? -自殺原因は本当に不明なのか ?

 
妊娠中のケンブリッジ公妃殿下、Kate Middletonが、先週つわりがひどくなってロンドン市内のKing Edward VII hospitalに入院したというニュースが流れた。

「それが何か?」と思っていた。ところが、その直後にショッキングなニュースが続いた。

オーストラリアのラジオ局2Day FMのDJ Mel Greig とMichael Christianの2人がQueen Elizabeth II と Prince Charlesになりすまして、電話でKate Middletonの容態を聞き出すという冗談コールを見事にやってのけた。勿論、電話で交わされた会話は全て番組の中でオンエアされた。そして、このちょっとしたお笑いで終わるべきはずだった事件がきっかけになって、電話で情報を提供してしまった看護師がこの番組の後まもなく自殺したというのだ。

DJ 2人は公に謝罪、ラジオ局は年末までの広告関連収入を看護師の遺族に全額寄付すると発表した。金額は50万豪ドル(約4300万円)以上になるという。

一瞬、自殺? そんなことでなぜ? 個人情報とは言っても全く無害な情報を漏らしてしまったことで自殺というオプションが出てくるものなのか。

犠牲者の看護師Jacintha Saldanha(46歳)は2児の母、子供を残して自殺したということになる。

2人の子供を持つ母親がこんなことで子供を残して自殺するだろうか。

最新のメディアの情報によれば、自殺に至った原因は不明、病院側はMs. Saldanhaのミスを大ごとにすることなく、むしろ同情的な態度で対応していたという報道をしている。

本当なのか?

Westminster Coroner’s Courtで行われた死因を決定するはずの予審も数分で休廷、来年の3月26日まで開廷しない。

「遺族は一体どうしているのだろうか?」と思った瞬間、予審には犠牲者の家族は姿を見せなかったというニュースが目に入ってきた。家族が誰も来なかった? なぜ?

首をつって自殺、手首にも傷があったという。書置きが3通見つかっている。彼女の部屋に2通、1通は彼女が身につけていたという。

警察はこの書置きの内容を公にしていない。なぜだろう?

オーストラリアのラジオ局が行ったいたずら電話行為は責められて当然だとしても、それはMs. Saldanhaの自殺とは関係ないはずだ。それがMs. Saldanhaの自殺の直接の原因になったと考えるのは拙速ではないのか。原因は犠牲者のもっと近くにあったはずだ。明らかにメディア、警察、病院、とにかく誰かが情報を操作している。

病院側が同情的だとメディアが伝えておきながら、予審に遺族が姿を見せられない状況をつくり出している英国がもつ、超保守的な何かが陰に隠れているとしか思えない。

Ms. Saldanhaが残した書置きの内容が公にされていない中で真相を究明し、この悲劇に対する怒りをぶつけるやり場を失っている遺族の思いを本当に理解したジャーナリズムを期待したい。

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Come on, wake up! ‐大人の語学習得に近道なんてあるはずがない

 
ネット上に本当によく目にする短期間で英語が身につけられるとか、聞いているだけで身につくとかいうマーケティング文句。10歳前後の子供ならまだしも、20歳を過ぎた大人にそんなことが不可能なことは言語学的にも証明されているはずだ。勿論、ほんの数パーセントの非凡な人間にはそれが可能な場合もあるから、このマーケティング文句は詐欺罪に当たらないというのだろうか。

それにしても、「ユーザーがこんなにいます。」と言われてこんなに違和感を覚えさせるビジネスも珍しい。

明らかにこのマーケティング文句を真に受ける人がたくさんいることを証明している。

よく英語の勉強の仕方について聞く人がいる。「日本にいる限り、どんなにやってもあまり効果は期待できないでしょう。」と身近な友人にははっきり告げる。勿論海外で生活しただけで上手くなるとは限らないのも事実。

自分の知る限り、10歳前後に海外で数年時間を過ごした場合は別にして、英語に限らず第2外国語として他言語をちゃんとマスターしたと言える人は間違いなく想像を絶するような努力をしている。よくあの人は語学の才能があるからというのを聞くと、「この人何も分かっていない。」と言いたくなるが、勿論、そんなことを面と向かって言ったりはしない。

カナダでもケベックに育つ子供達は、英語とフランス語の両方を話すのはそんなに珍しくはない。勿論、その場合はフランス語訛り、正確にはケベックワ(ケベックのフランス語)訛りがあるのは極めて普通。でもこの場合言語習得にはほとんど努力を要していない。10歳前後の子供は勉強の仕方に関係なく、おかれた環境の中で自然に他言語を約1カ月で理解し、話し始める能力を備えている。

時折、トロントで英語を身につけるために“英語環境”を求めて苦労しながら働いている日本人学生の姿を見て驚く。「頑張ってください。」と言うべきなのだと思う反面、「英語を身につけるだけのためにこんなことまでしなければならないのか?」と内心叫んでしまう。勿論、面と向かってそんなことを言ったりはしない。

カナダに来て25年たって、確かに自分も昔どうしたら英語が上手くなるのだろうと、周りの英語が上手いと言われていた人達に聞いたことを思い出す。あの時は質問をしている相手が海外に留学してMBAを持っているとか、あるいは海外で長く生活していたというだけで勝手に英語が上手いのだと思い込んで話を聞いていた。

皆それぞれ自分の経験から自分の意見を他人に伝える。全て善意なわけで、それをここで批判するつもりは全くない。

振り返って痛感するのは、語学は子供なら簡単に身につくスポーツのようなものだと思う。大人になってしまうと身につけるのがとても困難になるスポーツのような気がする。言語能力を司る脳のトレーニングには一生懸命という言葉が越えられない壁が存在する。

ところが一生懸命努力すれば上手くなるという誇大広告に踊らされて、なかなか上手くならないからさらに努力する。それでも上手くならないところに、海外留学を終えてまるで英語をマスターしたかのように振る舞う人達が英語教育市場をさらに刺激する。どんな手段にしても、大人が海外で2,3年勉強しただけで英語をマスターできるはずがないのに、それが分からないから、できるのだと思い込んでしまう。

分からない人達が分かったような気になっている人達に相談して、なんとなく分かった気がしている中で、分からないまま無駄な時間を過ごしてしまう。そしてそれがビジネスになっていた時代があった。

でも1つだけ明らかなのは、苦労して英仏語を身に付けたこの意味のなさを痛感している自分がここにいること。そして、もしもう1度やり直すことができるなら、絶対にあんなことは繰り返さないとはっきり断言できることだ。

振り返ると、かつて日本語のアクセントを消してネイティブのように話すことが最終ゴールのように思った若かった頃の自分を思い出すと情けない気持ちで一杯になる。そして、実際に周りのカナダ人でさえ自分の国籍に気づかないレベルにまで訛りを消してしまったことに達成感を感じた一時期の自分を哀れにさえ感じる。

語学は所詮コミューンケーションの手段にすぎない。その手段を身につけるために何年もの時間を費やすのは決して賢明とは言えない。これは冗談じゃなく、本当にそんなことをしてはいけない。

カナダには訛りを持って英語を話す人は珍しくない。英語もフランス語も本当にアクセントなしで話している人は子供の頃に言語を身につけている場合がおそらく大半だろう。アジア系だけでなく、例えば、英語を母国語としないヨーロッパ系の人達も20歳を過ぎてカナダに移民している人たちは何十年たっても訛りは消えたりしない。ケベックのお笑い番組でもカナダの首相のフランス語の訛りを面白おかしく真似をして、お笑いのネタにしてしまうのもまさにこの事実を物語っている。つまり、大人になってからの第2外国語の習得は世界的に英語が苦手とされる日本人だけに限った問題ではない。

そして、もし今現在日本にいて子供にどうやって外国語を身につけさせたいかについて真剣に悩んでいる人がいたら、子供が10歳前後の時点で何らかの形で留学させることを推奨する。

勿論、この場合日本語を忘れてしまう可能性があるのは言うまでもない。子供が日本語を忘れないようにするのは親側に課せられた大きなタスクになる。

遅くとも高校留学、それを逃してしまったら、海外に行っても語学習得のプロセスを早めたり苦労しないで英語力を向上させるオプションなんてどこにも存在しない。たとえ多少プロセスを短くできたとしても、10歳前後の子供が英語を身につける速さとその容易さと比較して、大人が費やす時間の長さと費用、そしてこのプロセスに伴う苦労をどうやって正当化できるというのか。

この弱みに付け込んでビジネスをする業界には幻滅する。

誤った期待をさせて、大人になってから真剣にネイティブレベルの英語習得を目指して膨大な費用と時間を費やすことを強いて、英語が上手くなったと錯覚させるビジネスが成り立ってはいけない時代は既に来ている。

同様に、周りに英語ができると言っている人たちが果たしてどれだけできるのかも分からず、それに続こうとしてお金と時間を無駄にする行為にも歯止めをかけなければならない時期に来ているような気がする。

詐欺としか言いようのないマーケティング文句が伝える誇大広告に惑わされて、自分が欲するキャリアを得るために今本当にしなくてはいけないことを、自分以外の誰かに決めさせることだけはしないでほしい。

カナダに来て25年たった今、これから海外で10歳前後の子供に英語を身に着けさせようとしている人達にはその決断が決して間違っていないことを心から伝えたい。

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Depression hurts more than cancer -軽視されがちな人間の弱さ

 
最近のGlobalnews.caで鬱病をはじめとする精神病に関する報道があった。

病気が人間の精神に与えるダメージの大きさの比較について。医者が、世間が、誤解しがちな精神病の人間に与えるダメージの深刻さ、中でも怠け者扱いをされてしまう場合も多いと言われるこの鬱病は想像以上に多くの人の心にダメージを与えることが報道されていた。

現状、人間に与える精神的ダメージの大きさでは、鬱病、双極性障害、アルコール依存症、社会恐怖症と精神分裂症がトップ5に挙がっていて、これらの病気が与える精神的ダメージは癌が患者に与える精神的苦痛の大きさの1.5倍にも相当するという。鬱病にかかっていた人がインタービューにこう答えている。「あの時は毎日頭痛がして、ベッドから出られない日が何日も続いてどうしていいか分からなかった。医者に行って鬱病だと言われた時はとてもショックで、癌だと宣告された方がよっぽどましだと思った。それぐらい辛くてしょうがなかった。」

鬱病をはじめとする精神障害がダメージのトップにあがる原因は、ビジュアルに確認できるような怪我をしているわけでもない患者の辛さを、周りが理解できないことにある。そして、本人もなぜ自分が鬱状態に陥ってしまったのか分からず、恥ずかしくて周りにも言えない。医者に行ってもどこも悪いところはないという診断を受け、病状はさらに悪化していく。本当にどうしようない状態に達して初めて医者が治療を開始するか、間に合わず自殺に至ってしまうというのがありがちなシナリオのようだ。

鬱病は精神障害全体の3分の1を占め、中毒が原因で死亡する人の約88%がアルコール依存症だというレポートが含まれていた。

精神障害による病気の引き金になっているのは学校を変わったり、仕事を変わったり、また結婚あるいは離婚など、人生における転機が挙げられている。

ニュースの中で5人に1人が家族の中に精神病患者がいるというコメントをしていた。

ふと「やっぱり世間体があるから…」と結局、真実を語らない人々の姿が目に浮かぶ。

残念ながら人はひとりではそんなに強くなれない。それを各個人が認め、社会がしっかり認識する必要がある。例えば、アルコール依存症、人口の何パーセントかは必ず、アルコールに依存しやすい体質の人がいるはずだ。それは、喫煙、賭博など中毒性のあるものについても同様のことが言える。世の中で90%以上の人間が抗体を持っている場合は、持っていない数パーセントの少数派が精神的に弱いという烙印を押されてしまうのだ。

社会は個人に対して無意識に正当性を欠いた圧力をかけている。精神力の強さが美徳とされ、強くもないのに、外目には強く見せなければならない義務を負うと誰もが信じ込んでいる。

世の中の精神病を全て支持するつもりはない。しかしながら、アルコールにおぼれてしまう人、煙草がやめられない人、賭けごとで破産に至ってしまう人、私生活に与える影響の大小はあるにしても基本的には病気なのだ。

精神病患者の数、あるいは症状は、社会自体の病状を示唆していると社会が認識しない限り、誤った先入観によって社会の片隅に追いやられてしまう人達がやがて社会に何らかの悪影響を与えてしまうのは目に見ている。

その時責められるべきなのはその個人なのだろうか。何の対策も講じなかった社会の責任は永久に問われないまま忘れられてしまうのだろうか。

自分の弱さを正直に語れなければ傷ついた人間の心は快方には向かえない。

ビジュアルに確認できない心の傷は、患者本人にも快方に向かっているかどうかが分からない場合が多いはずだ。

Oprah WinfreyやDr. Philが見せる幸福な瞬間が続かない人生の現実、恥ずかしくても、しっかり問題と向きあって解決しようとする社会を既に確立した国もある。

21世紀、世間体に操作されない自己の弱さを素直に語れる社会のトレンドが、もっと世界に浸透してもおかしくないような気がする。

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The Other Side Of Jimmy Savile -衝動が生み出す誤った価値観

 
11月10日、BBC のGeorge Entwisle会長は、人気報道番組Newsnightによる誤報の責任を取って辞任した。今回問題になっているNewsnightは、1980年代に保守党の閣僚であったAlistair McAlpineがNorth Walesにある児童福祉施設に保護されていたSteve Messham(当時13歳)を地元ホテルに連れ込んで数十回にわたって性的虐待を加えていたことを示唆する内容を報道した。

報道の中ではAlistair McAlpineという名前は明らかにされなかったものの、ネット上には報道とほぼ同時にその名前が広がった。ところが、すぐにこの情報が誤報であることが判明し、被害者のSteve Messhamは、誤報を認め謝罪している。

BBCはこれだけのスキャンダルを被害者にAlistair McAlpineの写真を見せて確認をとることすらしないで報道に踏み切ったのか。BBCの取材班が本当にそんな基本的なミスを犯したのか。

ちなみに、George Entwisleは会長に就任してからまだ2カ月しかたっていなかったのにもかかわらず、BBC トラストは、退職金として 彼の1年分の給与に相当するUS$750 万ドル(約6千万円)をGeorge Entwisle会長に支払ったことを認めている。多額の退職金が視聴料によって賄われることに対して批判の声が上がっているのは言うまでもない。

この性的虐待がらみのBBCスキャンダルは実は昨年末にまで遡る。

BBC人気司会者で昨年10月、84歳で死去したJimmy Savileが生前、少女約300人に性的虐待を加えていた疑惑が浮上。BBCの人気報道番組Newsnightの取材班がそれをかぎつけ昨年12月に放送を予定していた。

ところが、被害者が300人にも及ぶとされているにもかかわらず、警察側が「証拠不十分」という判断を下したためNewsnightは放映見送りを決定。今回辞任したGeorge Entwilse会長は当時テレビ部門の上層部の地位にあって、この事件に関して報道部が「今後もNewsnightの調査報道が続くなら、Jimmy Savileの功績をたたえる追悼番組をクリスマス放送するべきではない。」という意向を示していたことも彼はまちがいなく認識していた。

最終的にBBCはJimmy Savileの少女性的虐待疑惑を追及するニューズナイトの番組をキャンセル、その代わりにSavile氏の功績をたたえる追悼番組をクリスマスに放送した。

Jimmy Savileは1960年代以降、人気音楽番組「Top of the Pops」の司会を務め、エリザベス女王とローマ法王ヨハ ネ・パウロ2世からナイトの爵位を授与されている。引退後も慈善活動に専念するなど生前に成し遂げた功績は高く評価されている。

しかしながら、2007年と2008年にJimmy Savileに対する少女性的虐待疑惑が浮上した。「証拠不十分」という警察側の判断で疑惑が立ち消えになってしまったものの、その後被害者から届け出が相次いだという。

今後も独立調査委員会や下院でBBCの隠蔽疑惑は引き続き検証に向けて調査が続く模様。

今回のBBCの誤報事件は責任が厳しく追及されて当然だとは思いながらも、この事件が起きたあまりのタイミングの悪さに違和感を覚える。

もしかしたら、Jimmy Savileの少女性的虐待に関するNewsnight報道が昨年12月にキャンセルされて憤慨したBBC内部の人間の仕業なのか。あのBBCの取材班がこんな基本的なミスを犯すとは思えない。

それにしても、トップが辞めて何が解決されたというのか。これはBBC、あるいはイギリスだけに限らない。スケープゴート的に免罪符をつくりだすコンセプトはもう時代錯誤的アプローチとしか言いようがない。ミスを犯した人間に何らかの対策を講じるならまだしも、何も知らなかったと言い張るトップの人間を首にして何の解決になるというのか。

なぜJimmy Savileの300人にもおよぶ少女性的虐待を追求しようとする報道がキャンセルされてしまったのか。300人の被害者の存在を認識しながら、どうして証拠不十分などと言う判断が下されるのか。

1970年代のイギリスなら想像もつくが、21世紀の今日、しかも真実を追求するはずのあのBBCでこんなことが本当に起こるものなのか。

古びた価値観が引き起こした大きな誤解が無益な政治的後禍を生みだしてしまったとしか思えない。

Jimmy Savileが残した偉大な功績と彼が少女性的虐待を行った罪の間には因果関係は存在しない。

これは例えば、ドーピングで失格になるアスリートとは違う。この場合は薬を使わなければ記録が出なかったという明確な因果関係が存在する。

つまり、Jimmy Savileの功績は彼が犯した罪とは関係なく評価されて当然なのだ。そして、それとは全く別の尺度で小児性愛者であることを認識しながら、専門家の助けを求めず、それどころか自己が手にした権力を濫用して300人に及ぶ子供達に性的虐待を行った罪も同様に厳しく追及されて当然なのだ。

世界的にも認められた巨大メディアBBCが本当にすべきことは真実を人々に伝えることだけでなく、時代に即した人々の価値観をアップデートすること。とりわけ70年代から価値観がアップデートされずに今に至っている人々の再教育。

どんな状況においても過ちを隠すことなく、1人の人間が持つ光と影を正当に評価したり、罰したりできる体制を確立するとともに、過ちを責めることに終わらず、将来に向けての具体的な解決策を提示していく姿勢をこれからの時代を担うジャーナリストに伝えてほしい。

70年代80年代という時代が許してしまったJimmy Savilieの権利の濫用の悲劇を2度と繰り返してはいけない。

真実を伝えることに人生をかけたBBCのジャーナリストにそれを期待できないはずがない。

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The L’Aquila Verdict -ラクイラの人々だけが信じる正義

 
2009年にイタリアのラクイラを襲ったマグニチュード6.3の大地震。300人を超える犠牲者を出し、約6万人が被災したとも報告されたあの大地震はまだ記憶に新しい。

メディアの多くはこの地震の予知に失敗したことを理由にCivil Protection agencyメンバーの地震学専門家7人が過失致死容疑で起訴されたと報道した。

本当なのか?

2010年にThe American Association for the Advancement of Science (AAAS) のトップが, イタリアのGiorgio Napolitano大統領宛てにこの裁判を批判した旨の文書を送ったという。

いつものように勝手に先走るアメリカがいる。

そして13カ月にわたる裁判の判決が先週22日に下された。再びメディアの多くが、ラクイラ地裁は、科学者6人と地震学専門家1人に対し、「2009年に起こったラクイラ大地震を予知できず300人を超える死者を出した」とし、過失致死罪で懲役6年を言い渡したと報道した。勿論、被告側は既に控訴の意向を明らかにしている。

もともと検察側は「彼らの判断と人々の死の間に明確な因果関係が存在した。」とう理由で被告側に対して禁錮4年を求刑していた。それが今回の判決では求刑を2年上回る6年の懲役が言い渡されたことになる。

世界各国の5000人を超える科学者らが「地震の予測は事実上不可能なはずだ。それなのにどうして科学者を処罰できるというのか。」と批判の声を上げる。

今回有罪判決を受けたメンバーの中にはイタリア国内だけでなく国際的にも著名な地震学専門家が含まれている。

イタリアのNational Institute of Geophysics and Volcanologyの元会長の Enzo Boschiが「今回の判決については残念に思う。無罪放免になると思っていた。でも未だになぜ有罪なのか理解できない。」とコメントし、National Civil Protection agencyの元次長を務めていた Bernardo De Bernardinisが「判決がどうであれ、私は無罪だと思っている。それは神も人々も知っているはずだ。」とメディアのインタビューに答える。

彼らには本当に僅かでも彼ら自身が責められるべきだという意識はないのか?

確かに地震予知の失敗で刑事責任が問われるというのは、さすがに誰もが理解に苦しむはず。でもイタリアの司法部がそんな単純明快な論理を認識していないはずがない。

気になってネットで情報を検索した。すると真実が少しずつ見えてくる。この7人の地震学専門家は別に地震予知に失敗したことで起訴され有罪判決を受けたわけではない。この裁判ではラクイラの人々に対して科学者側が適切なコミュニケーションをとらなかったことが焦点になっている。実際にラクイラ地裁は地震予知に失敗したことが問題ではないことを明言している。

メディアの情報によれば、あの大地震がラクイラを襲う数ヶ月前から群発地震が続いていたとう。そんな状況だったにもかかわらず、実際に地震が起こる6日前の2009年3月31日に開かれた会議の中で、群発地震を分析した民間からの大地震を予知する声を、イタリアの地震学専門家と呼ばれる人達はきっぱり否定したというのだ。事実、この会議はほんの1時間ほどで終わったという。会議の中で当時イタリアのNational Civil Protection agencyの次長を務めていたBernard De Bernardinisは「最近あった群発地震のお陰で、大地震の原因になるはずのエネルギーがかなり放出されてしまった。これで大きな地震が起こる可能性がさらに小さくなっている。」に始まり、さらには「地震を心配するよりもワインを飲みに行きなさい。」とまで言ってしまったという。

これが報道され、安心して避難しなかった多くの住民が6日後大地震の犠牲者になった。

例えば、念のため避難させるという選択肢はなかったのか?一方で予知できないと言いながら、それならどうして可能性を100%否定することができるのか。これは予知に失敗するというのとは話が違う。もしこんなことが許されるのなら、何を言っても、何が起こっても責められない地震学者の存在意義自体が問われることになる。

この会議に居合わせた人でなければ本当には分かりえないその瞬間の地震学専門家と呼ばれている人達の対応の仕方。民間からの心配をよそに、全く根拠もない、全く正反対の予測を流した上に、「地震なんか心配しないで、ワインを飲みに行きなさい。」という言動。

こんな地震を軽んじた態度で「これから自分達は町をでなきゃならないからこの打ち合わせはできるだけ早く1時間ぐらいで切り上げよう。」という状況が仮に真実だったとしたら、こんな対応をされた挙句に、大地震で家族を失った人々の悲しみと怒りの重さは一体どうやって裁かれるべきなのか。

正直この裁判がラクイラで行われていること自体、客観的に見ても、一瞬公平な裁判がなされていないような気がした。

でも本当にそうだろうか。

真実が正当に裁かれるために必要なものはできるだけ多くの正しい詳細情報。

繰り返すが、この裁判ではイタリアの科学者が地震予知に失敗したことを問題にしているのではない。不適切な判断に加えタイムリーな情報開示を怠った科学者の杜撰な対応に対する責任。そしてその結果、大地震の犠牲になった300を超える人々の命の重さがラクイラの人々が信じる正義が存在する法廷で正当に裁かれたと言えるのではないのか。

つまり、この裁判で追求されるべき正義はラクイラの人々によってしか正当には裁かれないのではないのか。

そして、必然的に懲役6年という刑事処罰が果たして正当かどうかも、ラクイラの人々にしか分からないはずだ。

メディアの多くが操作する表面的事実にだけ基づいて世界各国の5000人を超える科学者が口出しすること自体内政干渉に抵触すると言わざるをえない。

公判の最終弁論の後、4時間もの時間をかけて考え抜いた末にラクイラ地裁のMarco Billi判事が出した正義の答えは、地震学者の虚栄を満たすことよりも、大地震で家族を失った人々の悲しみと怒りを癒すことを選んだと言える。

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Finnish Success in PISA -フィンランドが伝える教育理念

 
今週はなぜかSélection du Reader’s Digest(9月号)の中にあったフィンランド教育制度についての記事が目に止まった。

別に新しい情報ではないと思いながらも、「ええっ?」といいながら引き込まれた。

フィンランドのEspooと言う町にあるKirkkojarvi Comprehensive Schoolの学長、Kari Louhivuoriが語るフィンランドが成し遂げた教育改革成功への道筋。

フィンランドは、2000年に40カ国以上の15歳の子供達に対して実施されたPISA(The Programme for International Student Assessment)の結果、読解力についてはトップにランクされた。3年後には数学で、6年後には科学でトップに躍り出るという偉業を成し遂げた。

ところが、フィンランドの小学校は7歳まで始まらないという。

「ええ?」と思う。

Kari Louhivuoriが「子供に教育を受ける準備ができていないのに始めてもあまり効果は生まれない。大体そんなにあわてる必要はない。」とコメントする。

フィンランドの教育制度では高校の最終学年に義務付けられているテストを除いて、俗に日本で言うところの中間試験も、期末試験も存在しない。生徒間、学校間、地域内でも、とにかくランク付けも、学力比較、競争が存在しないというのだ。

「ええ?」と思う。

そして、決め手が、一番できる生徒と一番できない生徒の差が世界で一番小さいという。

“We prepare children to learn how to learn, not how to take a test.”

「言うは易し。」と言い返したいところだが、結果を出されている手前そんなことも言えない。

Kari Louhivuoriがまた、「お金持ちでかつ高い教育を受けた両親を持つ子供達は馬鹿な先生にでも教えられる。我々が面倒を見なければならないのはできる生徒ではなく、あまりできない生徒達だ。」

「ええ、そこまではっきり言うのか。」と思わず笑いを誘う。

アメリカはフィンランドから学ぶことはないといい、フィンランドの隣国ノルウェーはアメリカの教育制度を模倣してもうこの10年もの間、PISAでのスコアは上昇の兆しが見られない。

ふと、中学、高校時代何故こんな受験戦争が必要なのかと思った瞬間を思い出す。疑問を持つことさえ許されず、当然を強いられる生活はいつの間にか毎週が、毎月が、毎学期が全て試験で仕切られていた。季節の変わり目までを中間試験や期末試験が教えてくれる時代が義務教育の思い出に変わって行く。そんな時代が多分今でも続いているのだろうか。

フィンランドに続こうとする国々がその成功の鍵を探ろうとする。

Kari Louhivuori曰く、フィンランドは授業料が小学校から大学まで100%政府が援助する。少数クラス、教える側のトレーニングにフォーカスして、教師が実際に生徒に教える時間よりも、授業の準備にもっと時間をかけるという。彼らのマインドには常に教授法を向上させようとする意欲とそれが最終的には国の経済を成長させることに繋がるという信念がしっかり植えつけられている。

フィンランドが語る成功の秘訣はどれも当たり前のことのようにしか思われない。

でも世界の国の多くはそれをなかなか模倣することはできないでいる。

世の中には、軍事力を強化することが国の成長に繋がると信じて疑わない国もあれば、自分が今だに1番だと信じて、そしてそれを維持するために、2番と3番を上手い具合に喧嘩させたりする国や、多くの国民の搾取の上にGDPを上げてもうすぐ自分が1番になると傲慢な態度にでる国もある。

ゆりかごから墓場までをスローガンにする北欧の国々、その中でフィンランドが偉業を成し遂げることができた本当の理由はやり方自体にあったわけではないような気がする。

先進国に限らず、世界の国のトップは多かれ少なから汚職が進んでいる。権力を握った階級層がそれを維持するための手段を惜しまない世界では社会の弱者を保護しようとする動きはなかなか生まれてこない。

フィンランドでは国が政治的に、とりわけ教育面で弱者を保護することが国の成長に繋がると判断した結果、教育を提供する側の質やレベルを革命的な速さで向上させた。そこには純粋にできない生徒をできるようにしたいと心から願う優れた講師陣が存在し、かつ教授法が絶え間なく改善し続ける環境が確立されている。

要するに端的な例をあげれば、一国のリーダーになるかもれしれない人間が、47%の国民は税金を払っていないから、自分の減税策は意味をなさない。残りの53%にターゲットを絞れば選挙戦に勝てるなどと言うようなコメントが公に流れてしまう国ではそんなことはまさしく不可能なのだ。

ここで1つだけ言えるのは、この偉業を成し遂げたフィンランドから世界の国の多くが学ぶべきことは彼らの真似をすることではないはずだ。

大切なのは、国のトップに立つ人たちが、純粋に国民の利益を第一に考えるマインドセットを確立すること。そして、その利益を守る方法が、フィンランドと同様に教育なのかそれとも別の政策が必要なのかは当然国によって変わってくるはずだ。

残念ながら、現状、政府のトップが内心自己の利益だけを第一に考えて、時代錯誤的政策を繰り返していく限り、大きな絵の中で物事を見ることができない、国民の大多数は、方向性を失ったまま、途方に暮れる。

一生懸命やるふりをすれば、自分が生きている間はこの船は沈まない、一国の政府のトップがもしそんなマインドセットを持っているとしたら、フィンランドの将来と明暗を分ける理由もあえて言及するに値しない。

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Do we really need to fix gender inequality? -女性が願う平等な社会とは?

 
最近のニューヨークタイムズの記事で社会における男女の地位に関する記事が目についた。女性の地位が向上したことを伝える本が数多く出版されているのにもかかわらず、アメリカの長者番付にはほとんど女性の名前があがってこない。アメリカ議会を見ても女性議員が占める割合が未だに17%と低い数字が報告されているという。

そして今から50年前のアメリカ社会は高卒の男性の方が大卒の女性よりもいい仕事、いい給料を手に入れていた時代。日本で言うところの亭主関白状態で夫が家族の中であらゆる決定権を持っていたことが書かれてあった。そして、その決定権の中には妻に対してセックスを強いることさえ許されていたという内容が含まれていた。

このニュースを読んで一瞬「これは別に女性の地位の向上の話ではなく、男女平等の話でもない。50年かけて、アメリカの男性が自らの犯した過ちに気付いて悔い改めただけの話ではないのか。」と思う。

アメリカ社会における女性の地位の向上は70年代、80年代に急速な進展を遂げた後、90年代後半にはその勢いを弱め今日に至っているという。

女性の地位の向上、あるいは男女平等という概念に関しては、一般的に語られている視点がそもそも少しずれている気がしてならない。

性別による差別の問題は人種による差別とは全く違う。女性はマイノリティーではない。

例えば、オリンピックでは年齢や人種による競技のクラス分けはないが、男女が競い合うことはない。本当に平等を考えるのなら当然性別による差別があってはいけないはずなのに、そんなことを女性だけはなく誰も求めたりしない。つまり、少なくとも肉体的な能力レベルの男女間の違いは社会全体が認めている。

この誰もが認める男女間の違いをベースにして、一体何が男女平等に当たるのかを確定することはそんなに容易なことではないはずだ。

そして、性別による差別と、能力やパフォーマンスをベースにした判断には大きな違いがあるのも否めない。

例えば、企業がほぼ同じ能力をもつ男性と女性のどちらか一方を管理職に就かせようとする時に、やがては産休で数カ月間いなくなってしまうかもしれない女性より、同等の能力を持つ男性を選ぶことが男女平等の概念に反することだと本当に言えるのか。

企業は慈善事業をしているわけではない。利益を上げるために従業員が産休を取って仕事ができなくなることがあらかじめ分かっていて、男女平等という概念に基づいて女性を選択することを強いられていいものなのか。

もしそうなら、それは許された差別によって女性は保護されて、その差別によって男女平等が実現すると言う理論になる。つまり、男女平等は女性を優遇することで成り立つ差別が根底にあるということになる。

これが男女平等の真の姿なのか。

また記事の中でこんなことが書かれていた。男性以上に給料をもらっているのは大都会に住む未婚で子供もいない20代のキャリアウーマン。他方、子供を持つ女性はなかなか雇用されない現実があるという。

これもまたあえてニュースになるようなことなのか。

常識的に考えて現状、政府で働く人たちには当てはまらないのかもしてないが、利益が上がらなければつぶれてしまう私企業の雇用主の立場に立てば、この事実は必然的に生みだされる状況に他ならない。そして、これは男女平等の話ではなく、能力主義、結果主義をベースにした人事選択に過ぎない。

そしてふと思うのが、メディアが伝えるように、女性は本当に社会における地位の向上を求めているのだろうか。

50年前ならともかく、基本的に男女平等が当然だと考えれている現在のアメリカ社会で、どうしてここまで未だに女性の地位の向上が語られるのか。

語られること自体、まるで女性が未だに平等に扱われていないような印象を受ける。

でも本当にそうなのだろうか。

女性が本当に地位の向上を求めているのなら、例えば、なぜもっと女性起業家が生まれてこないのか。女性は別に少数派でない。現時点で既にたくさんの成功を顕示する女性起業数がメディアを飾っていてもおかしくないはずだ。ところが、実際には現在アメリカのFortune トップ1000の企業のCEOの中で女性が占める割合はわずか4%に過ぎない。

既存の男性社会と直接競合することなく、女性の強さを最大限に利用して、例えば、女性が過半数を占める企業をつくりだすことだって不可能ではないはずだ。でも現実にはそんなきざしは見えていない。

物理的なインフラには問題はないはずなのに、社会に根づいている古い意識のインフラが現状に甘んじる女性達を立ち上がらせようとしないのか。

そして、もし未だに女性の多くが心のどこかで「私はやっぱり、男性に守ってもらいたい。」という気持ちを持っているとしたら、女性の地位の向上や男女平等の概念についての議論自体、根本からそのベースを失ってしまうことになりかねない。

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Protect your personal information! -求められる個人情報に対する意識改革

 
毎日のようにスパムメールが流れてくる。「他にやることないのかよ???」と言いたくなるが、スパムメールは日々数が増えるだけでなく、徐々に悪質になっている。勝手に個人のメールアドレスが使われて、なりすましでウィルスをバルクメールで流す。

以前、友人の1人が、知り合いからのメールだと思って送られてきたメールにあったリンクをクリックしたら、自分のコンタクリストにあるメールアドレス全てにスパムメールが流されたという話を聞かされた。

数ヶ月前にクレジットカードがハックされた。カード所有者には直接損害は起こらないものの、この種の詐欺は、一体どこでどうやってカード情報を入手するのか、カード会社の担当者にしつこく問い詰めてしまったのを思い出す。

そう言えば、8月の初めぐらいにFacebookが9億5500万ユーザー中その約8.7パーセントに当たる8300万人が偽名を使った架空ユーザーだという事実を認めたというニュースが流れた。

一瞬何を今更と思った。

Facebookに限らず、世界の全ユーザーがこぞってプロファイルを消したら、その瞬間に消えてしまうかもしれない、そもそも存在の危うい会社の過大評価されて、公開後もいっこうに株価が上がらないのは何ら不思議ではない。まして、これだけ技術革新が進むのが速い時代に、ソーシャルネットワークが進化し続けないわけがない。過去に一世を風靡した会社が技術革新によって消えた話なんて珍しくもない。

個人情報を集めて分析しマーケティングに使うビジネスモデルは、ベースになる情報の信頼性が疑われ始めた段階でクライアントがひき始めるのは当然。大体、個人情報の保護が叫ばれる中、オンライン広告みたいなビジネスモデルがどうして許されてしまうのかよく理解できない。ソーシャルネットワークサイトをいくら無料で使わせてくれるからと言っても、そこにある個人情報をコマーシャル目的で使うことが本当に許されていいものなのか。なぜ世界のインターネットユーザーは立ち上がらないのか。

あのグーグルも個人情報の保護の問題についてはかなり高飛車な態度に出ているが、どうしてそんなことが許されるのかと思うのは自分だけなのか。

例えば、もし世界のユーザーが結束してグーグルをネットで使うことをやめたらどうなるのだろうか。検索エンジンなんてたくさんあるのだから不可能ではないはずだ。

大体、検索エンジンを使うユーザーがいなければ全く成り立たないビジネスなのにもかかわらず、無料で入手した個人情報をベースに、そのユーザーに広告を有料で出させて本当に誰がクリックしているかも分からない中で、クリックするごとにチャージするビジネスモデルなんて本当に許されていいのだろうか。それだけじゃない。この10年間にワンクリックの料金が約10倍近くまで跳ね上がっている。あくまでネット上での広告であり、新聞や雑誌とは違ってコストが限りなく低く抑えられているのにもかかわらず、こんなことが法律上本当に許されていいものなのか。この10年間に例えば家賃が10倍に跳ね上がったりしたら世間が黙っていないはずだ。

そして、つい最近、オンラインデーティングサイトやソーシャルネットワークサイトで、他人の写真を使ってプロファイルを作り、あたかも本人のふりをしてコンタクトをしてくる人たちから個人情報を盗まれる事件が多発しているというニュースが流れた。

8月ぐらいには、全くの第3者によって自分のプロファイルを使ってフェースブックのアカウントがつくられているという話を数人の友達から聞かされたのを思い出す。

ツイッターでもお金を払ってフォロワーの数を増やしているというニュースが流れた。

インターネットの便利さの陰に潜む、法律も、警察も入り込めない無法地帯はトレースされないのをいいことにオンライン上でどんどん広がって行く。

コントロールできないのは個人のプライバシーだけではおさまらない。インターネット上にあるもっともらしい情報の信憑性を失わせる詐欺行為が横行する中、意図的に第3者に経済的損害を与える行為が氾濫し始めている。

グーグルをはじめとする検索エンジンや、フリーメール、フリーウェブホスティング、オンライン上のフリースペースを提供する企業は、本当にユーザーの利益を最優先にする立場に立てば、少なくとも彼らのサーバー上にある個人情報をまちがいなく保護することが可能なはずだ。

それが実際には保護されず、詐欺行為が横行しているのはどこかで情報が漏洩しているからに他ならない。

でもそれを許しているのは全世界のインターネットユーザー1人1人の認識不足。

どんな理由があっても個人情報が個人の承諾なしに知らないところで商売に使われたり、不正に売られたりしてはならない。

インターネット上に一度アップロードした情報全てに権利を主張するこが不可能だとしても、各企業が入手した個人情報を保護できないという理論を受け入れてはいけない。

そして、法律にはもっと現行正当化されているビジネスモデルの問題点を摘発するとともに、警察にもハイテクスタッフを集結してオンライン詐欺防止に取り組んでほしい。

いずれにしても、残念ながらネット上に氾濫する詐欺行為は今後もさらに巧妙な手口で犠牲者を増やしていくに違いない。

全ての解決が望めないにしても、世界レベルでネットユーザーの結束が図れれば、相当の改善が期待できることを忘れないでほしい。

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