The L’Aquila Verdict -ラクイラの人々だけが信じる正義

 
2009年にイタリアのラクイラを襲ったマグニチュード6.3の大地震。300人を超える犠牲者を出し、約6万人が被災したとも報告されたあの大地震はまだ記憶に新しい。

メディアの多くはこの地震の予知に失敗したことを理由にCivil Protection agencyメンバーの地震学専門家7人が過失致死容疑で起訴されたと報道した。

本当なのか?

2010年にThe American Association for the Advancement of Science (AAAS) のトップが, イタリアのGiorgio Napolitano大統領宛てにこの裁判を批判した旨の文書を送ったという。

いつものように勝手に先走るアメリカがいる。

そして13カ月にわたる裁判の判決が先週22日に下された。再びメディアの多くが、ラクイラ地裁は、科学者6人と地震学専門家1人に対し、「2009年に起こったラクイラ大地震を予知できず300人を超える死者を出した」とし、過失致死罪で懲役6年を言い渡したと報道した。勿論、被告側は既に控訴の意向を明らかにしている。

もともと検察側は「彼らの判断と人々の死の間に明確な因果関係が存在した。」とう理由で被告側に対して禁錮4年を求刑していた。それが今回の判決では求刑を2年上回る6年の懲役が言い渡されたことになる。

世界各国の5000人を超える科学者らが「地震の予測は事実上不可能なはずだ。それなのにどうして科学者を処罰できるというのか。」と批判の声を上げる。

今回有罪判決を受けたメンバーの中にはイタリア国内だけでなく国際的にも著名な地震学専門家が含まれている。

イタリアのNational Institute of Geophysics and Volcanologyの元会長の Enzo Boschiが「今回の判決については残念に思う。無罪放免になると思っていた。でも未だになぜ有罪なのか理解できない。」とコメントし、National Civil Protection agencyの元次長を務めていた Bernardo De Bernardinisが「判決がどうであれ、私は無罪だと思っている。それは神も人々も知っているはずだ。」とメディアのインタビューに答える。

彼らには本当に僅かでも彼ら自身が責められるべきだという意識はないのか?

確かに地震予知の失敗で刑事責任が問われるというのは、さすがに誰もが理解に苦しむはず。でもイタリアの司法部がそんな単純明快な論理を認識していないはずがない。

気になってネットで情報を検索した。すると真実が少しずつ見えてくる。この7人の地震学専門家は別に地震予知に失敗したことで起訴され有罪判決を受けたわけではない。この裁判ではラクイラの人々に対して科学者側が適切なコミュニケーションをとらなかったことが焦点になっている。実際にラクイラ地裁は地震予知に失敗したことが問題ではないことを明言している。

メディアの情報によれば、あの大地震がラクイラを襲う数ヶ月前から群発地震が続いていたとう。そんな状況だったにもかかわらず、実際に地震が起こる6日前の2009年3月31日に開かれた会議の中で、群発地震を分析した民間からの大地震を予知する声を、イタリアの地震学専門家と呼ばれる人達はきっぱり否定したというのだ。事実、この会議はほんの1時間ほどで終わったという。会議の中で当時イタリアのNational Civil Protection agencyの次長を務めていたBernard De Bernardinisは「最近あった群発地震のお陰で、大地震の原因になるはずのエネルギーがかなり放出されてしまった。これで大きな地震が起こる可能性がさらに小さくなっている。」に始まり、さらには「地震を心配するよりもワインを飲みに行きなさい。」とまで言ってしまったという。

これが報道され、安心して避難しなかった多くの住民が6日後大地震の犠牲者になった。

例えば、念のため避難させるという選択肢はなかったのか?一方で予知できないと言いながら、それならどうして可能性を100%否定することができるのか。これは予知に失敗するというのとは話が違う。もしこんなことが許されるのなら、何を言っても、何が起こっても責められない地震学者の存在意義自体が問われることになる。

この会議に居合わせた人でなければ本当には分かりえないその瞬間の地震学専門家と呼ばれている人達の対応の仕方。民間からの心配をよそに、全く根拠もない、全く正反対の予測を流した上に、「地震なんか心配しないで、ワインを飲みに行きなさい。」という言動。

こんな地震を軽んじた態度で「これから自分達は町をでなきゃならないからこの打ち合わせはできるだけ早く1時間ぐらいで切り上げよう。」という状況が仮に真実だったとしたら、こんな対応をされた挙句に、大地震で家族を失った人々の悲しみと怒りの重さは一体どうやって裁かれるべきなのか。

正直この裁判がラクイラで行われていること自体、客観的に見ても、一瞬公平な裁判がなされていないような気がした。

でも本当にそうだろうか。

真実が正当に裁かれるために必要なものはできるだけ多くの正しい詳細情報。

繰り返すが、この裁判ではイタリアの科学者が地震予知に失敗したことを問題にしているのではない。不適切な判断に加えタイムリーな情報開示を怠った科学者の杜撰な対応に対する責任。そしてその結果、大地震の犠牲になった300を超える人々の命の重さがラクイラの人々が信じる正義が存在する法廷で正当に裁かれたと言えるのではないのか。

つまり、この裁判で追求されるべき正義はラクイラの人々によってしか正当には裁かれないのではないのか。

そして、必然的に懲役6年という刑事処罰が果たして正当かどうかも、ラクイラの人々にしか分からないはずだ。

メディアの多くが操作する表面的事実にだけ基づいて世界各国の5000人を超える科学者が口出しすること自体内政干渉に抵触すると言わざるをえない。

公判の最終弁論の後、4時間もの時間をかけて考え抜いた末にラクイラ地裁のMarco Billi判事が出した正義の答えは、地震学者の虚栄を満たすことよりも、大地震で家族を失った人々の悲しみと怒りを癒すことを選んだと言える。

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